2003年の猛暑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 02:09 UTC 版)
「パトリック・プルー」の記事における「2003年の猛暑」の解説
パトリック・プルーの名前が知られるようになったのは、フランスで高齢者を中心に14,800以上が死亡した2003年の猛暑(ヨーロッパ熱波)の際である。彼はかなり早くから(最初の50人ほどの死亡が猛暑の影響であることを指摘し)様々な報道番組に出演して、医療サービスにおけるこの猛暑の影響について警告し、対応の遅れを非難した。 (AMUHF会長パトリック・プルー博士の発表によると)パリに隣接する高級郊外住宅街のあるオー=ド=セーヌ県全体で、8月15日の週末、連絡可能な医師は、実に2名のみであった。「多くの在宅高齢者を患者に持つ家庭医は、継続性が肝心。代診者とのコンタクト方法も伝えずに休診した医師は、もはや犯罪者である」と糾弾する。彼は、「最初に異常を感じた時点で、何度も行政機関に警告したが、10日間以上、政府から何の反応もなかった。救急の廊下は夏季病床閉鎖の影響で行き場のない患者で溢れていた。搬入された時点で既に力尽き果てている高齢者が」と続ける。そして、「我々、病院救急勤務医は過酷な労働条件に長年さらされ、その多くがバーン・アウトしている。今回も、最前線で病診連携の後援もなく孤闘した感がある」とも。 彼はこれ以前から医療サービスの改善(特に新病棟の建設)のために病院内でも労働組合においても、さらには『シャルリー・エブド』の医療コラムにおいても様々な働きかけを行っていたが、これを機会にメディアに取り上げられ、やがてオピニオンリーダーの役割を果たすことになった。だが、彼の医療制度批判に病院側はますます神経をとがらせ、挙句は嫌がらせを受け、解雇されることになった。その後、パリ市救急医療支援サービスの救急医になったのは、当時のパリ市長ベルトラン・ドラノエの取り計らいによるものだったという。
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