1993年4月: 安保理がスレブレニツァを「安全地帯」に指定
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「スレブレニツァの虐殺」の記事における「1993年4月: 安保理がスレブレニツァを「安全地帯」に指定」の解説
1993年4月16日、国際連合安全保障理事会(国連安保理)は決議819号を可決し、「全ての部隊とその他当局者は、スレブレニツァとその周辺地域を安全地帯として扱い、いかなる武力攻撃やその他の敵対行動をとってはならない」とした。1993年4月18日、 UNPROFORの最初の部隊がスレブレニツァに到着した。 スレブレニツァ飛び地周辺へは、スルプスカ共和国軍のドリナ軍団3団からの千人ないし2千人の兵士が、戦車、装甲戦闘車両、大砲、迫撃砲を装備して展開していた。飛び地に留まっていたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の第28山岳師団は、うまく組織されておらず装備も貧弱であった。確固たる指揮系統や伝達システムが無く、兵士の一部は古い狩猟用ライフルのみか全く武器を持っていない状態であった。きちんとした制服を持っていたのはごく僅かであった。 「安全地帯」の合意は、当初より双方の勢力によって侵された。国連保護軍のオランダ軍部隊の指揮官であったトマス・カレマンス(Thomas Karremans)中佐はICTYで証言し、彼の部隊がスレブレニツァに戻ることや装備や弾薬の搬入を、スルプスカ共和国軍によって妨害されたとした。スレブレニツァにいたボシュニャク人は、セルビア人兵士による攻撃があることを訴えた。他方でセルビア人は、スレブレニツァのボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍は「安全地帯」をスルプスカ共和国軍に対する反撃のための「便利な基地」として利用しており、国連保護軍はそれを阻止するいかなる手段もとっていないとした。セフェル・ハリロヴィッチ(Sefer Halilović)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦軍のヘリコプターが飛行禁止区域を侵害して飛行し、彼自身の命令で弾薬を積んだ8機のヘリコプターを第28師団に送ったことを認めた。
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