1985年・夏の甲子園とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 1985年・夏の甲子園の意味・解説 

1985年・夏の甲子園

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:17 UTC 版)

中山裕章」の記事における「1985年・夏の甲子園」の解説

1985年夏の甲子園で、高知商業高校快進撃続けたが、中山は「攻守ともに高知史上最強レベル」とうたわれた当時チーム原動力となったまた、当時大会取材していた高野想(スポーツ新聞記者)は「春夏の甲子園大会初め150 km/hの球を投げた投手中山と言われている。のちに清原中山からあれだけ長距離本塁打後述)を放て理由は、中山速球が強い反発力生んだからだろう」と述べている。 甲子園では初戦藤嶺藤沢神奈川代表)戦で最速150 km/h速球投げるなどして9対2で勝利した。続く第2回戦では同じく四国勢志度商業香川県代表)戦で最速145 km/h記録し初回先頭打者から6連続奪三振記録するなど、2被安打12奪三振好投で4対0の完封勝利記録3回戦でも同じく四国勢川之江愛媛県代表)と対戦し立ち上がり不調突かれ2点先制されたが、8回には同点追いつき、延長11回裏にサヨナラ勝ち決めたPL学園との準々決勝では再び桑田投げ合い、5回裏の最初打順で「この試合目玉」と注目され4番清原対戦。しかし、真ん中高めに投げた渾身の速球バットの真捉えられ左翼席上段に達す特大ホームラン推定飛距離:140 m)を被弾した。さらに6番・桑田にも右翼ラッキーゾーンへのホームラン被弾し試合は3対6で敗退した同年秋の第40回国民体育大会高等学校野球競技では桑田投げ勝って甲子園雪辱果たし優勝原動力となった。この時の控え投手1年下の岡林洋一がいる。

※この「1985年・夏の甲子園」の解説は、「中山裕章」の解説の一部です。
「1985年・夏の甲子園」を含む「中山裕章」の記事については、「中山裕章」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1985年・夏の甲子園」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1985年・夏の甲子園」の関連用語

1985年・夏の甲子園のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1985年・夏の甲子園のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの中山裕章 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS