1984年冬季オリンピックとその後
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「トレベヴィチ山」の記事における「1984年冬季オリンピックとその後」の解説
1977年にボブスレーとリュージュのトラックが計画された。トラックの計画は1981年に認可されその年の6月1日に着工され.、翌年の1982年9月30日に563,209,000YUDの費用をかけ完成した。1984年のオリンピック開催時にはリュージで20,000人、ボブスレーでは30,000人の観客を集めている。冬季オリンピック開催後は1991年に勃発するユーゴスラビア紛争とそれに続くサラエヴォ包囲までは、トラックはワールドカップ等の競技会で使われていた。トラックはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の結果、ダメージを受けてしまった。サラエヴォ包囲時にはトラックはセルビア人ゲリラ勢力の砲撃台として使われていた 。今日でもトラックは紛争中に受けた傷跡を含め残っている。本来の用途ではなく、そのほとんどは新時代の芸術的な表現の場として使われている。また、2008年にセルビア系の団体が山の一部であるスルプスカ共和国領域に紛争を記念した26mの巨大な正教の十字架を掲げる計画を立て論争になった。
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