1960年–1980年
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「ホリースプリングス (ノースカロライナ州)」の記事における「1960年–1980年」の解説
1960年代初期、人口は580人ほどで安定し、ノースカロライナ州道55号線が拡張されたのと同じ時期に町は通りに蛍光灯の街灯を導入した。町の美化努力が州の外観委員会から表彰されることになった。町の人種別構成は1980年代まで強い少数民族が存在して、バランスが悪くなっていた。この時代、黒人の事業が幾つか繁栄した。ドライクリーニング、床屋、雑貨屋3軒があり、ジョージ・グリグスビーという著名黒人市民が建てた「パックハウス」という集積所があった。この人物から地元のグリグスビー・アベニューが名付けられた(それまでは旧フキー道路と呼ばれていた)。町政委員会は著名な黒人で構成され、例えば、バーニス・ラシター、コーラ・ラシター、ジェイムズ・ノリス(ホリースプリングスでは最初の黒人町長)、ジョン・マクニール、エディソン・パーキンス、ジョージ・キンブル、説教師ベックウィズがいた。後の1980年代にはナンシー・ウォンブル、オーティス・バード牧師などがおり、今日でもパリッシュ・"ハム"・ウォンブルが残っている。 この時代に町はデシー・メイ・ウォンブルを雇用した。ノースカロライナ州では初の黒人女性の警察署長だった。黒人差別が停止されると、黒人用のホリースプリングス学校が閉鎖され、その生徒の多くが周辺の町の学校に転校となった。これが町でのバス通学の始まりとなり、1990年代後半まで続いていたが、ホリースプリングス道路沿いにホリースプリングス小学校が開校してそれが終わった。
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