1960年〜70年代
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「カストロ通り」の記事における「1960年〜70年代」の解説
1967年に近隣のハイト・アッシュベリー地区(英語版)での「サマー・オブ・ラブ」現象の盛り上がりを受けて、カストロ地区は同性愛者達の中心的な存在へと成長し、全米から数万人規模で中産階級の若者が集まり始めた。それまで「ユリーカ・バレー」として知られた地区の名前も、通りの名を冠したカストロ劇場(英語版)がオープンした後には「カストロ」として知られるようになる。1970年代には、この地区の中産階級の住民が郊外へ流出し始めたことで住宅相場が下がり、それまでサンフランシスコ市内で同性愛者達が集まる地区として最も栄えていたポルク・ガルチ(英語版)地区からの住民が流入するようになった。 1973年にはハーヴェイ・ミルクがカストロカメラをオープン、また同性愛者の社会活動家として政治的な運動に関わり始めたことで、カストロ地区は同性愛者の集う場所というイメージを広めることとなった。 1970年代終わりには、当時の服装や習慣を指す「カストロ・クローン(英語版)」という言葉が誕生した。これは当時の同性愛者に人気の高かったスタイル(細いデニムジーンズに、黒やデザートサンド色のコンバット・ブーツ、きつめのTシャツ、口ひげや顎ひげ)のことを指し、 "Clone Canyon" とも呼ばれていた。この頃にはバーなどナイトライフの有名店がカストロ通りの18丁目からマーケット・ストリートにかけて存在していた。
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