1938年・最良のシーズン
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「リチャード・シーマン」の記事における「1938年・最良のシーズン」の解説
「1938年のグランプリ・シーズン」も参照 1938年はシーマンにとって最良のシーズンとなり、7月のドイツグランプリ(英語版)では、チームメイトのマンフレート・フォン・ブラウヒッチュとの争いを制してグランプリ初優勝を遂げる。 このレースはチームにとっての母国グランプリであることから、ノイバウアーは必勝を期し、ドライバーたちにコース上でチームメイト間で争うことを禁じるチームオーダーを出していた。シーマンはレース中盤までにファステストラップを記録するほどの速さを示していたものの、わずかに先行して首位を走るブラウヒッチュに仕掛けるわけにはいかず、ブラウヒッチュの直後にぴったりと張り付いてレースを進め、ブラウヒッチュと同時にピットインした。ブラウヒッチュからシーマンが近すぎると苦情を受けたノイバウアーは、チームの1-2フィニッシュを達成するため、シーマンにはもう少し離れて走るよう改めて注意を与えた。しかし、そんな話をしていたところ、ブラウヒッチュの車両が火災に見舞われるというアクシデントがあったことから、問題なくピットアウトしたシーマンが逆転することになり、その点では運が味方した勝利だった。 この優勝はナチス政権下のドイツグランプリでイギリス人ドライバーが優勝したものとして有名になり、シーマンはこの結果に気を良くしたアドルフ・ヒトラーのお気に入りのドライバーの一人となる。続くスイスグランプリ(英語版)では、豪雨となったレースで「レーゲンマイスター」(雨の名手)のカラツィオラに次ぐ2位となって再び実力を示した。このレースはシーマンにとって生涯最高のドライビングだったと評す者もいる。
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