1937年・デビューと負傷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 14:45 UTC 版)
「リチャード・シーマン」の記事における「1937年・デビューと負傷」の解説
「1937年のグランプリ・シーズン」も参照 メルセデスチームにおけるシーマンは、5月の非選手権のトリポリグランプリでデビューを飾り、このレースはトラブルによりリタイアに終わったものの、途中、チームメイトのヘルマン・ラングの後ろ、エースであるルドルフ・カラツィオラの前の2位で走行し、レギュラードライバーと遜色ない速さで走れることを証明してみせた。7月初めにアメリカ合衆国で開催されたヴァンダービルト杯では、英語を母国語とすることから遠征するドライバーの一人に抜擢されて参戦し、このレースでアウトウニオンのベルント・ローゼマイヤーに次ぐ2位表彰台に立ってみせた。 しかし、肝心のヨーロッパ・ドライバーズ選手権のデビューは順調なものとはいかなかった。7月に開催されたドイツグランプリ(英語版)でデビューしたが、このレースでシーマンはアウトウニオンのエルンスト・フォン・デリウス(英語版)の死亡事故の当事者となる。シーマンに対してオーバーテイクを仕掛けたデリウスはコントロールを失ってコースを塞ぎ、シーマンはそれに追突する直前に車外に投げ出されたため、重傷こそ負わなかったものの、鼻、腕、手首、親指、胸といった複数を骨折する怪我を負ってしまう。この負傷が響いて、シーマンは続くモナコグランプリ(英語版)とスイスグランプリ(英語版)の欠場を余儀なくされた。 9月のイタリアグランプリ(英語版)で復帰し、このレースで4位入賞を果たした。同月の非選手権のマサリクグランプリ(英語版)でもチームメイトに次ぐ成績を残し、復調を印象付けることとなる。
※この「1937年・デビューと負傷」の解説は、「リチャード・シーマン」の解説の一部です。
「1937年・デビューと負傷」を含む「リチャード・シーマン」の記事については、「リチャード・シーマン」の概要を参照ください。
- 1937年・デビューと負傷のページへのリンク