黄金の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 16:33 UTC 版)
カッシウス・ディオは、トロサの黄金の起源は紀元前3世期にバルカン半島を襲ったガリア人ブレンヌスにまでさかのぼるとしている。 紀元前280年、ガリア人の大軍勢がマケドニア王国およびギリシア中央部に侵攻した。パウサニアスによれば、彼らの目的は掠奪であった。この遠征における指導者の一人だったブレンヌスは、大成功をおさめた略奪行に味をしめて、諸部族を説得し再度ギリシアへ侵攻した。当時のギリシア諸都市は比較的弱体化していながら都市に多くの富を蓄えており、特に神殿を襲えば目覚ましい利となるとブレンヌスは説いたのである。ストラボンは、ウォルカエ・テクトサゲ族がこのブレンヌスの遠征に参加していたとしている。 しかし紀元前279年の遠征では、ブレンヌスらは前年のような戦果を挙げられなかった。さらにギリシア側では、アイトーリア、ヴィオティア、アテネ、フォキス、その他コリントス以北の諸都市の軍勢がテルモピュレの狭隘地に集結していた。ブレンヌスは南東方面に進み、スペルケイオスで10万人の軍勢と共に川を渡ると、ギリシア本軍の側面に回って数で圧倒しようとした。 しかしこのテルモピュライの戦いで、ガリア人はギリシア人のファランクスの前に膨大な戦死者を出して敗北した。そこでブレンヌスは各方面に散開することでギリシア軍の戦力を分散させる戦略に切り替え、4万人の軍勢をアイトーリアに送った。この別動隊はカッリアを制圧し、アイトーリア地方の街や神殿を野獣のように荒らしまわった。これを知ったアイトーリア人は、故国を守るためテルモピュレの連合軍から離脱した。 アイトーリアの惨状を知ったギリシア連合軍は士気が落ち、ヘラクレイアやアエニアニアが連合軍から離脱した。彼らは自分たちの領域から早々に立ち去ってもらうために、ガリア人にテルモピュレの迂回路を教えた。ブレンヌスは再び軍を二つに分け、本軍をアキコリウスに任せてその場に残し、自ら別動隊を率いて、200年前のテルモピュライの戦いでペルシア軍が通ったのと同じ道を通り、フォキス軍の背後をついて破った。 フォキス人たちから知らせを受けたギリシア連合軍は、テルモピュレを放棄してアテネ海軍の軍船に乗り撤退した。ブレンヌスはアキコリウスを待つことなくデルポイのアポローン神殿へ進軍し、いくつかの史料によれば、これを略奪した。 しかしその後、ギリシア連合軍は最終的にガリア人を打ち負かし、ブレンヌスを戦死させるに至った。この時点で、ガリア人の軍勢は散り散りになった。テクトサゲス族ら一部のガリア人はヘレスポントスを渡って小アジアに入り、ガラティアに定着した。それ以外の生存者は、ギリシアで奪った戦利品を持って南ガリアに帰っていった。 紀元前1世紀の歴史家グエナウス・ポンペイウス・トログスの著作を抜粋したユニアヌス・ユスティヌスは、この後のガリア人について、故郷のトロサに帰ってきたウォルカエ・テウトサゲス族の間で悪疫が起こり、彼らが戦利品を池に投げ込んでようやく収まった、と述べている。
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