高田築城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:46 UTC 版)
越後領有当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城を居城としたが、高田城を築城して慶長19年(1614年)2月にこれに移った。高田城は幕命(天下普請)により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。西の越前国に封じられた同じく家康の子である結城秀康67万石の北の庄城と高田城の忠輝63万石の合計130万石で、加賀国の前田家120万石を挟んで封じ込める形になる。他の天下普請の徳川城郭と比較した場合に石垣の比率が低いが、これは東北の城全般に言える。移転理由として海と2本の川に囲まれた福島城は交通利便はあるが、河川や海による城への被害が激しかったためとある。また俗説として忠輝が絶えず聞こえる日本海の波の音を怖がったために内陸部に移転した、とする話が伝わる。
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