高次流 (若狭京極家)
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高次は慶長14年(1609年)に47歳で死去、息子の忠高は大坂の陣で功績を挙げ、越前敦賀郡1郡をさらに加増される。また徳川将軍家より正室を迎え、寛永11年(1634年)、室町時代にかつて京極氏が守護として世襲した旧領国の出雲・隠岐の2カ国26万4,000石へと加増転封とされた(松江藩)。しかし、忠高は寛永14年(1637年)に嫡子の無いまま急死、末期養子に甥の高和(京極忠高の弟安毛高政の嫡男)を望んでいたが認められず改易されかけたが、高次の功績により存続を許され、高和は播磨龍野藩6万石へと移封減封、さらに讃岐丸亀藩6万石へと転封となる。丸亀藩は飛び地として、近江の一部も領していた。 高和の子である高豊も40歳で急死したため、嫡子の高或に5万1,000石を、庶子の高通に多度津藩1万石をそれぞれ継がせることになり、高或は3歳、高通は4歳で藩主となった。高或・高通の成人以降は安定した時期が続いた。 高或流(宗家) 丸亀で明治維新を迎え、子爵に列せられた。 高通流 多度津で明治維新を迎え、子爵に列せられた。
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