高倉・菅原の競演
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「大脱獄 (1975年の映画)」の記事における「高倉・菅原の競演」の解説
また五木ひろしにも1974年12月に正式に出演オファーを出し、五木も高倉の大ファンで、プライベートでも付き合いがあったことからその場で出演を了承し、最初は高倉健、渡哲也、五木ひろしの3大スター共演を予定していた。当時の五木は当代一の売れっ子といわれたため、映画のために長期間スケジュールを割けないが大乗り気で、所属の野口プロがすぐに1975年3月5、6日、18日、19日の四日間をまるまる映画のためにスケジュールを明けた。映画とレコード界のチャンピオン同士という顔合わせは話題性も充分で、五木も高倉との共演を仲間に吹聴して回っていたが、1975年2月に入り脚本が進むと様相が変わってきた。「高倉を大親分ではなく、アクションスターだった原点に帰す」というコンセプトが打ち出され、ハードなロケが予想された。また渡が体調を崩し1975年2月20日にゲスト出演に回り、渡の代役で高倉とがっぷり四つに組む役には、岡田社長が「菅原文太で行け」と“鶴の一声”を発し、「高倉、菅原、渡で活動大写真を作れ」と指示したことから、本来出演予定のなかった菅原が渡の代役を務めることになった。東映幹部は「文ちゃん(菅原文太)だけでも稼げるのにもったいない」と反対したが、岡田が断を下した。高倉・菅原の競演は『山口組三代目』以来2年ぶり。菅原の東映デビューは高倉の看板シリーズ『網走番外地 吹雪の斗争』で、菅原はチョイ役。それから7年が経ち、当時はライバル視される東映の二大スター。菅原は「ライバルとか何とかは世間が勝手に言ってること。私は大関で横綱に胸を借りるつもりです」と話し、高倉は「今やもう文ちゃんは東映を代表する役者。こっちこそ胸を借りるわけです」と話した。
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