駿河国花沢城代とは? わかりやすく解説

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駿河国花沢城代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 08:29 UTC 版)

小原鎮実」の記事における「駿河国花沢城代」の解説

遠州宇津山城退去後の動向も、前掲『改正三河後風土記』に詳しい。 西の徳川家康だけでなく、北の甲斐国山梨県)の武田信玄までも今川領の駿河国への侵略開始し永禄13年1570年)、鎮実の守る花沢城同県焼津市)に武田軍攻撃開始した1月4日開戦し、城から大木大石投げ落とし敵兵熱湯熱砂浴びせて戦ったと言う。だが、1月8日には開城して、鎮実は城から逃亡し遠江国高天神城同県掛川市)の小笠原氏助(後の信興)に身を寄せたが、既に徳川家康内通していた氏助は、 鎮実・三浦義鎮右衛門佐父子の首をはねて家康献上した三州吉田城代のおり、徳川御家人人質悉く串刺しにした恨み深く徳川家康激怒していたのを聞いていたためという。 なお、大久保忠教彦左衛門)の『三河物語』によれば永禄11年1568年)の出来事として、小原備後守なる人物小笠原八郎(氏助)を頼り遠江逃れてきたが、既に徳川氏帰属決めていた小笠原氏により妻子ともども皆殺しにされた。そのあまりの無慈悲さ人々は「小笠原行く末良くない」と思ったという。 野史形原遺事記』によれば元亀元年正月武田信玄により、駿州花澤城和解開城後、今川近臣である四宮右近縁者である所へ留まり蟄居したが、小笠原九郎がこれを知り、鎮實を始め妻子に及ぶまで、悉く此れ殺害した合せて上下七十五人であった。と記してある。

※この「駿河国花沢城代」の解説は、「小原鎮実」の解説の一部です。
「駿河国花沢城代」を含む「小原鎮実」の記事については、「小原鎮実」の概要を参照ください。

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