余聞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:14 UTC 版)
関ヶ原の戦いに敗れて、江洲水口から大湯に落ちてきた佐藤正直についてきた男の一人に、隠密の左多六という者がいて、それから大湯に住んだという伝説がある。また、大湯をかつて支配した奈良氏の子孫の語りに、ここに住んでいた佐藤左多六を頼れと言われてきたものだとする言い伝えが残っている。 左多六の墓は草木集落に現在、左多六の子孫と言われる柳舘家の墓と並んである。墓碑銘は風化しているが、側面の年号は「享保一六」と読める。これは1731年なので、佐藤正直について来た人とすると年代が百年ほど合わない。南部信直から慶長9年に免状を下賜された左多六とも時代が合わない。また、伝説の時代に比べて刻みが新しすぎると疑惑を持つ人もいる。あるいは代々左多六の名を世襲した人が建てたものであると考えるのが自然のようである。 草木の左多六神社は旧左多六屋敷の隅にある小さな神社である。昔は鳥居が二つ三つあったと言われ、大きくきちんとしたものがあったと言われる。またその脇には、石碑が建っている。 左多六の免許証は2巻ある。一つは老犬神社の別当宅に、もう一つは下草木の柳舘家にあるという。全くの同文だが、書体が違っている。明治時代に盗難にあった際に、模写されたものか、あるいは左多六の妻が累が及ぶ心配が無くなったと判断して草木に帰ったときに、模写し持ち帰ったものかも知れない。 左多六は同じ南部藩内で領境侵犯の罪で処刑された。これは、鹿角と三戸は同じ南部藩でもその地方の領主がいたためである。
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