領域確定まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 03:21 UTC 版)
国後島には古くからアイヌ民族が先住し、漁業を中心にした生活を行っていた。18世紀になると日本人(和人)が来航し、蝦夷地と呼ばれていた北海道を支配していた松前藩の御用商人である飛騨屋がアイヌとの交易地点として古釜布や国後島南岸部の泊に「場所」(番屋)を開いたが、その横暴ぶりに怒ったアイヌの部族集団が1789年に蜂起し(クナシリ・メナシの戦い)、古釜布の場所も襲撃されて和人に死者が出た。この蜂起は松前藩が鎮圧したが、既にこの時期にはカムチャツカ半島から千島列島(ロシア名:クリル列島)へのロシア帝国の南下が始まっていたため、1797年に江戸幕府が国後島を含む東蝦夷地を直轄領として国防体制を強化した。1811年にはゴローニン事件の発生で日露関係がさらに悪化したが、蝦夷地と国後島の定期航路を開いた高田屋嘉兵衛らの尽力により解決し、大規模衝突は回避され、古釜布を含む国後島全域は日本の実効支配が確立した。1855年の日露和親条約により、国後島は正式に日本領として国際的に認知された。 この変動の中、先住民のアイヌ民族は絶えていった。1789年の蜂起でアイヌ側指導者を処刑した松前藩も飛騨屋による虐待を認めざるを得ず、蝦夷地の松前藩領を召し上げた江戸幕府もアイヌ民族の保護には手を付けなかった。和人の専横による漁場でのアイヌ人の「奴隷化」やアイヌ女性への凌辱は絶えず、さらには和人から天然痘などの伝染病も持ち込まれて、国後島のアイヌ集落は消滅した。このため、古釜布を含めた国後島は、ニシンなどを求める和人の漁民が春から秋にかけて滞在する姿ばかりが増え、定住人口はほとんどいない空白地となった。
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