順軍:北京占領・明の崇禎帝の死
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「明清交替」の記事における「順軍:北京占領・明の崇禎帝の死」の解説
李自成が率いる順軍は1644年3月に北京に到着し、明の元宦官杜勲(中国語版)を通じて明の崇禎帝に申し出た。申し出の内容は、明が陝西省・山西省間の封土に関する李自成の支配を承認して100万両を支払い、李自成の身分を保持するなら、李自成は明のために清と戦い、全ての叛徒を全滅させるというものだった。明の宮廷では南への遷都も検討されていたが、崇禎帝は体面を重視して結論を出さなかった。明の官吏が投降し亡命したので、李自成は北京を占領した。崇禎帝は娘や側室を殺傷し、皇后が自害するのを見届けてから、紫禁城の外にある宮殿の木(英語版)から首を吊って自殺した。崇禎帝にしたがって殉死したのは宦官の王承恩だけだったとされる。李自成は崇禎帝と皇太子を殺さずに順の貴族として認めるつもりでいたが、崇禎帝はすでに自殺したあとだった。李自成は権力を共有し共同統治するために来たと言いながら、崇禎帝の死を嘆いた。投降した官吏の中には李自成にこびる者もいたため、李自成は官吏たちを明滅亡の原因と見て信頼しなかった。順軍は北京入城までは規律がとれていたが、北京占領後は城内で略奪や暴行を行ない、上層部は内部の権力闘争にあけくれた。
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