青斑入蝉葉種の由来
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浪速牽牛社を結成した吉田宗兵衛(本名惣兵衛)(号は秋草園)は明治19年(1886年)に旧筑前黒田侯の所望で種子16品を献上した返礼として、黒田家秘蔵の種子10種を拝領した。この中に「間黄洲浜葉柿覆輪四寸三分咲」の品種があり、そこから明治19年(1886年)に「村雲」と命名された「黄洲浜葉黒鳩覆輪四寸八分咲」、また「老獅子」と思われる「黄洲浜葉大和柿覆輪四寸五分咲」が生まれ、さらに翌年の明治20年(1887年)に「村雲」から「常暗」と命名された「黄千鳥葉黒鳩無地五寸咲」、「老松」と命名された「黄千鳥葉唐桑無地」が出現した。当時の5寸(15cm)咲は未曾有の巨大輪で、当初秘蔵種とされたが、明治26年(1893年)やむなく他へ譲渡され「常暗筋」と称され流行した。明治28年(1895年)頃浪速牽牛社に入社、のち大正11年(1922年)に大阪大輪朝顔会を組織し会長になった花井善吉(大蕣園)が常暗筋の老獅子から「紫宸殿(青斑入千鳥葉紫天鵞絨無地)」(6寸2分、18.8cm)(明治38年、1905年)をはじめとする一連の品種を作出した。仁田坂は「浪速蕣英会雑誌等を見ると、明治末~大正にかけて既に蝉葉の品種はあったが、千鳥葉(洲浜葉)の紫宸殿の方が花径は大きかったようである。」と述べている。蝉葉は洲浜葉(千鳥葉)と蜻蛉葉(鍬形葉)が掛け合わされた物であるが、鍬形葉の品種でも洲浜に次ぐサイズのものがあった。花井善吉に弟子入りし大輪朝顔の栽培法を会得した塩飽嘉右衛門(嘉蕣園)は大正8年(1919年)自然変化で生まれた「御所桜(青斑入蝉葉桜色無地)」が当時最大輪の6寸7分(20.3cm)に咲き、その子孫を多数栽培し、自然変出から多くの品種を作り出した。この系統は千鳥葉に比べ花切れが少なく巨大輪に咲いたので、関西だけでなく関東でも広く栽培されるようになり。2020年現在栽培されている青斑入蝉葉種の元祖だとされる。
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