雑誌『ステル』を創刊
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「パウリナ・クチャルスカ=ラインシュミット」の記事における「雑誌『ステル』を創刊」の解説
1895年11月、当時オーストリアが統治していたルヴフにおいて、ポーランド語で書かれた隔週発行の女性誌『ステル(ポーランド語版)』(「舵」の意)を創刊し、編集長を務めた。同誌は、教育面での男女の機会均等を実現しようとする女性の支援に重点を置いたもので、オジェシコヴァの小説『ポーランド人女性』など著名な作家による作品を掲載したが、売り上げは芳しくなく、1897年に資金難のため休刊する。1905年10月20日から同月23日にかけてワルシャワで開催された第1回ポーランド女性会議の主催者はクチャルスカであり、彼女は結婚改革をテーマとする講演も行った。1906年に開催された集会では女性参政権をテーマとした論文を発表した。 1906年3月に政治結社が合法化され、フェミニズム運動が活発化すると、クチャルスカは1907年4月、「女性の同権獲得のための雑誌」という副題を新しく入れて『ステル』をワルシャワで復刊した。同誌はプロイセン、ロシアおよびオーストリアの3国によるポーランド分割のために散らばったサフラジェットのコミュニケーションの場を提供することを目的としていた。読者獲得を狙って料理書ライターのルツィーナ・チュヴィエルチャキエヴィツォワ(ポーランド語版、英語版)のコラムを連載した。復刊第1号にはクチャルスカによる記事「女性選挙権」が載った。同誌は通常は月刊で発行されたが、隔月や隔週で発行することもあった。1回当たりの発行部数は1,000部であったが、当時雑誌は家族などで回し読みをすることが多かったため、その数倍の読者があったとみられる。
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