集団戦法・一騎討ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
『八幡愚童訓』に記されているように、多くの書籍で元軍の集団戦法の前に一騎討ち戦法を用いる日本軍は敗退したと書かれている。しかし、『八幡愚童訓』は後世に記された宗教書であり、八幡神の化身の登場によって元軍を破ったことを強調しており、そのために日本軍が戦闘で一騎討ちなど稚劣な戦闘法で敗北したかのような記述になっているとの見解がある。 一騎討ちに関しては、元寇に参戦した肥後国御家人・竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』絵五に描かれているように、陸戦においては日本の武士たちが騎兵を密集した一団となって集団で戦闘が行われている様子が描かれており、一騎討ちを挑む武士は全く描かれていない。また、文永の役の元軍の博多湾上陸に際しては、日本軍の総大将・少弐景資は、赤坂から博多に進出してくる元軍を待ち受けるよう全軍に指示し、元軍が進出してきた後、元軍に集団で一斉に騎射攻撃を加える作戦を立てていた。このように、特別な場合を除いて一騎討ちは行われておらず、一騎討ちは武士の通常の戦闘方法ではない。武士団ごとにまとまって戦っていたと考えられている。 また、元朝の官吏・王惲は、元寇の際の武士の様子をその記事『汎海小録』において「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」 と記しており、武士が騎兵を結束させて集団で戦っていたことを指摘している。 『元史』においても、日本の特性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」 とあり、一騎討ち戦法ではなく、日本が大軍を擁しており、上陸した場合四方から元軍に攻撃を仕掛けてくることを元朝政府が警戒している様子が記されている。
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