雁門の勇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 17:07 UTC 版)
漢の武帝のころ、聶壱が武帝の密命を受けた王恢と共に、匈奴との交易を利用して騙し討ちを画策した(馬邑の役(中国語版))ことから、聶壱の一族全体が単于の恨みを買っており、復讐を避けるために「張」に改姓したという。 若い頃に郡吏となり、武力が常人を越えていることから并州刺史の丁原に見出され、従事に採り立てられた。後に兵士を連れて洛陽に上り、何進の命で河北に赴き、募兵で1000人を集めて帰還した。しかしその時には、既に何進は宦官に殺害されていた。張遼は兵を率いたまま、丁原らを排除して実権を掌握した董卓の配下となり、董卓が王允と呂布に暗殺されると、呂布の配下となり、騎都尉となった。 初平3年(192年)6月、李傕・郭汜らが長安を攻撃すると、敗れた呂布に従って長安を出奔した。 呂布が徐州を支配すると、魯国相に任命された。この時の年齢は28歳であった。 建安3年(198年)春、高順と共に小沛の劉備を攻撃し、救援に来た曹操軍の夏侯惇を敗走させ、9月沛城を陥落させた。任命時期は不明だが、この時には北地太守となっている(『英雄記』)。同年12月、呂布が下邳で曹操に敗れて処刑されると、張遼は麾下の将兵と共に曹操に降伏し、中郎将・関内侯となった。
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