阿伏至羅国
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太和11年(487年)、柔然隷属下の高車副伏羅(ヒュフゥーラ)部の阿伏至羅(アフゥーツィラ)とその従弟の窮奇(キョンキ)は、柔然可汗の豆崙(トゥルン)に対し、度重なる北魏への侵犯を諫めたが、豆崙が聞き入れないので、阿伏至羅らは所部の衆10余万落を率いて、柔然から離反した。阿伏至羅は自立して王となり、国人はこれを号して“候婁匐勒”(ハウラウフゥーラク、こうろうふくろく:大天子の意)とし、窮奇は“候倍”(ハウペイ、こうはい:儲主の意)と号した。2人は部を分けて立ち、阿伏至羅は北に住み、窮奇は南に住んだ。豆崙はこれを討つが敗戦を重ね、東へ移った。 太和14年(490年)、阿伏至羅は商胡越者を遣わして北魏に朝貢した。 後に窮奇が嚈噠(エフタル)に殺され、その子の弥俄突らが捕えられると、その衆は分散し、北魏に亡命したり、柔然に投降したりした。孝文帝は詔で宣威将軍・羽林監の孟威を遣わし投降者を納め、高平鎮を置いた。阿伏至羅の長男は阿伏至羅の余妻と謀って阿伏至羅を殺そうとしたので、阿伏至羅はこれを殺した。 阿伏至羅は残暴な性格だったので、衆心を失い、衆はこれを殺して宗人の跋利延(バーリエン)を立てて主とした。 正始4年(507年)10月、柔然隷属下の高車人である他莫孤(ターモァグ)は部を率いて北魏に降る。 永平元年(508年)4月、嚈噠が高車を征伐すると、高車の国人たちは弥俄突(ミオトゥー)を推戴しようと、跋利延を殺し、弥俄突を迎えて即位させた。弥俄突が立つと、ふたたび北魏に遣使を送って朝貢するようになった。6月、高車国は北魏に遣使を送って朝貢した。弥俄突は柔然可汗の伏図(フトゥ)と蒲類海(バルクル湖)の北で戦うが、伏図に敗れ、300余里も西走した。しかし、伏図は北魏の龍驤将軍の孟威が高昌王の麴嘉を迎えるため伊吾にやってくることを知ると、怖れて遁走した。これに乗じて弥俄突は反撃し、伏図を蒲類海の北で殺害し、その髪を割いて孟威に送りつけた。7月、弥俄突はその莫何去汾(モァクァチーフェン、ばくかきょふん:官名)の屋引叱賀真(オクインチーカチン)を北魏に遣わし、その方物を貢納した。 永平3年(510年)9月、烏萇・伽秀沙尼の諸国は北魏に遣使を送って朝献した。高車別帥の可略汗らは衆1700を率いて北魏に内属。10月、高車・亀茲・難地・那掲・庫莫奚の諸国は北魏に遣使を送って朝献した。 永平4年(511年)12月、高車国は北魏に遣使を送って朝献した。 熙平元年(516年)、弥俄突は柔然可汗の醜奴(ツァオヌ)と戦い敗北した。醜奴はその両脚を駑馬の上に繋いで、これを殺し、その頭蓋骨に漆を塗って杯とした(髑髏杯)。その部衆はことごとく嚈噠に入った。 数年を経て、嚈噠は弥俄突の弟の伊匐(イフゥー)の還国を聴いた。 神亀元年(518年)5月、高句麗・高車・高昌の諸国は北魏に遣使を送って朝貢した。 正光2年(521年)、伊匐は柔然を大破し、柔然可汗の婆羅門は涼州に投降した。 正光3年(522年)4月、伊匐が北魏に遣使を送って奉表したので、孝明帝は遣使者の谷楷らに高車国主の伊匐をもって鎮西将軍・西海郡開国公・高車王とした。 伊匐は後に柔然と戦い、敗北。その弟の越居(イェク)は伊匐を殺し自ら立つ。 東魏の天平年間(534年 - 537年)、越居は柔然に破られ、伊匐の子の比適(ピシィ)は越居を殺して自ら立つ。 興和3年(541年)4月、越居の子の去賓(チーピン)が東魏に降ったので、孝静帝は封じて去賓を高車王とし、安北将軍・肆州刺史を拝したが、既に病死していた。
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