阿伏至羅国とは? わかりやすく解説

阿伏至羅国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 08:28 UTC 版)

高車」の記事における「阿伏至羅国」の解説

太和11年487年)、柔然隷属下の高車副伏羅(ヒュフゥーラ)部の阿伏至羅(アフゥーツィラ)とその従弟窮奇(キョンキ)は、柔然可汗豆崙トゥルン)に対し度重なる北魏への侵犯諫めたが、豆崙聞き入れないので、阿伏至羅らは所部の衆10落を率いて柔然から離反した。阿伏至羅は自立して王となり、国人はこれを号して“候婁匐勒”(ハウラウフゥーラク、こうろうふくろく大天子の意)とし、窮奇は“候倍”(ハウペイ、こうはい:儲主の意)と号した2人は部を分けて立ち、阿伏至羅は北に住み窮奇は南に住んだ豆崙はこれを討つが敗戦重ね東へ移った太和14年490年)、阿伏至羅は商胡越者を遣わして北魏朝貢した。 後に窮奇嚈噠エフタル)に殺されその子の弥俄突らが捕えられると、その衆は分散し北魏亡命したり、柔然投降したりした。孝文帝は詔で宣威将軍羽林監の孟威遣わし投降者を納め高平鎮を置いた。阿伏至羅の長男は阿伏至羅の余妻と謀って阿伏至羅を殺そうとしたので、阿伏至羅はこれを殺した。 阿伏至羅は残暴性格だったので、衆心失い、衆はこれを殺して宗人の跋利延(バーリエン)を立てて主とした。 正始4年507年10月柔然隷属下の高車人である他孤(ターモァグ)は部を率いて北魏に降る。 永平元年508年4月嚈噠高車征伐すると、高車国人たちは弥俄突(ミオトゥー)を推戴しようと、跋利延を殺し、弥俄突を迎えて即位させた。弥俄突が立つと、ふたたび北魏に遣使を送って朝貢するようになった6月高車国は北魏に遣使を送って朝貢した。弥俄突は柔然可汗伏図(フトゥ)と類海(バルクル湖)の北で戦うが、伏図敗れ300余里も西走した。しかし、伏図北魏龍驤将軍孟威高昌王の麴嘉迎えるため伊吾やってくることを知ると、怖れ遁走した。これに乗じて弥俄突は反撃し伏図類海の北で殺害し、その髪を割いて孟威送りつけた。7月、弥俄突はその何去汾(モァクァチーフェン、ばくかきょふん:官名)の屋引叱賀真(オクインチーカチン)を北魏遣わしその方物を貢納した永平3年510年9月、烏萇・伽秀沙尼の諸国北魏に遣使を送って朝献した。高車別帥の可略汗らは衆1700率いて北魏内属10月高車亀茲・難地・那掲・庫奚の諸国北魏に遣使を送って朝献した。 永平4年511年12月高車国は北魏に遣使を送って朝献した。 熙平元年516年)、弥俄突は柔然可汗醜奴(ツァオヌ)と戦い敗北した醜奴はその両脚駑馬の上繋いで、これを殺し、その頭蓋骨に漆を塗って杯とした(髑髏杯)。その部衆はことごとく嚈噠入った数年経て嚈噠は弥俄突の弟の伊匐(イフゥー)の還国を聴いた神亀元年518年5月高句麗高車高昌諸国北魏に遣使を送って朝貢した。 正光2年521年)、伊匐は柔然大破し柔然可汗婆羅門涼州投降した正光3年522年4月、伊匐が北魏に遣使を送って表したので、孝明帝は遣使者の谷らに高車国主の伊匐をもって鎮西将軍西海郡開国公・高車王とした。 伊匐は後に柔然戦い敗北。その弟の越居(イェク)は伊匐を殺し自ら立つ。 東魏天平年間534年 - 537年)、越居柔然破られ、伊匐の子の比適(ピシィ)は越居殺して自ら立つ。 興和3年541年4月越居の子の去賓(チーピン)が東魏降ったので、孝静帝封じて去賓を高車王とし、安北将軍肆州刺史拝したが、既に病死していた。

※この「阿伏至羅国」の解説は、「高車」の解説の一部です。
「阿伏至羅国」を含む「高車」の記事については、「高車」の概要を参照ください。

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