阿仁銅山発見二説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 18:07 UTC 版)
金山として出発した阿仁鉱山の名を全国に広めたのは、銅山発見からであった。そのいわれについては、2つの説が存在しており、いずれも説話に仮託されている。 寛永説(寛永14年、1637年):銅山木山方旧記によるもの。「大坂の小間物商円八郎は行商先で知り合った女と夫婦になったが、女は望郷の念を押さえきれず、米白の港(現在の能代港)から上流の極印沢へ夫の元を離れ去っていった。円八郎は妻を追いかけ、極印沢の暗闇沢で黄金に輝く石を発見した」というものである。 寛文説(寛文10年、1670年):秋田金山旧記によるもの。「高岡八右衛門(1608年 - 1684年)は、大坂の茶豪商北国屋吉右衛門の手代として阿仁を訪れた。八右衛門はある日帰宅すると、妻は不在で一匹の銀狐が昼寝をしていた。それを追い払おうとしたところ狐はたちまち妻の姿に変わった。妻は暇を乞うたが、妻恋しさにその後を追った八右衛門は、極印沢の山中で仮眠中に、妻が夢枕に現れて鉱床を教えた。」というものである。 いずれも最初の発見地は極印沢であることは共通している。地元では寛文説を採る方が妥当とされるが、その根拠は秋田藩が寛文10年に採掘許可を出したという文書が残っているからである。
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