阪東妻三郎の栄光
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新生・芦屋で2本を撮ったところで、志波は、同年に設立された阪東妻三郎プロダクションに招かれ、奈良に同年オープンした中川映画製作所で、志波オリジナル脚本の『魔保露詩』をマキノ省三プロデュース、阪東妻三郎主演で監督することになる。同作は同年末12月31日にマキノの正月映画として公開された。このとき志波はまだ、25歳の誕生日を迎えた直後であった。その後も、京都の同プロダクションに留まり、阪東の主演作である『尊王』や『素浪人』、『蛇眼』(いずれも1926年)などの剣戟映画を自らのオリジナル脚本で、しかもハイペースに撮り続けた。翌1927年(昭和2年)、同プロダクションの現代劇部である「阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画」で、阪東の出演しない映画『馬鹿野郎』を撮り、同社を退社した。 すぐに直木三十五(当時「直木三十三」)の主宰する「連合映画芸術家協会」で、江戸川乱歩の小説を直木が脚本にした『一寸法師』に取り組むが、撮影途中で逃亡、続きを直木自身が監督をして完成するという事件があった。日活大将軍撮影所の20歳の美少年俳優・市川市丸が独立して設立した「日本映画プロダクション」に即座に参加、第1作『宣戦布告』を監督するが、興行的に惨敗、同社は4本を製作して同年中に解散した。 志波は、芦屋時代の仲間のカメラマン唐沢弘光や同社で出会った俳優の鳥羽陽之助とともに、日活太秦撮影所に同年のうちに入社、大河内伝次郎主演の『剣と恋』を監督した。日活には丸2年いたが、1930年(昭和5年)、古巣の帝国キネマに戻った。同年同社で撮った、ピストル強盗清水定吉をテーマにした『時代の反抗児』、中江兆民を主人公にした『旋風時代』の2作は評価が高く、『旋風時代』は同年の「キネマ旬報」誌ベストテンで第2位に選ばれた。
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