関靖
根っからの酷吏であり、媚びへつらうばかりで長期的な計画など持っていなかった。しかし公孫瓚には格別に信頼、寵愛されていた《公孫瓚伝》。 建安三年(一九八)、袁紹が総攻撃をかけてくると、公孫瓚は黒山賊張燕に救援を求めるとともに、みずから城外の包囲を突破、西山を迂回して袁紹軍の背後を衝こうとした。関靖は「いま将軍の将兵のうち脱走を企てぬ者はおりません。それでも彼らが防戦し続けるのは父や子を思い、将軍を頼りにしているからなのです。このまま堅守していれば袁紹の方から撤退するかも知れないのに、もし彼らを置き去りにして突出なさるならば、城を抑える者がいなくなり、易京を危険に陥れてしまいますぞ」と諫め、公孫瓚の出撃をやめさせた《公孫瓚伝・後漢書同伝》。 胡三省は、公孫瓚の計略は、下邳における陳宮の計略と同じであるが、いずれも用いられなかったため敗北したのだと指摘している《後漢書公孫瓚伝集解》。 翌四年、公孫瓚は敗北して易京は陥落した。関靖は恨み歎き、「あのとき将軍の出撃を止めなければ失敗することはなかっただろうに。君子たるもの、他人を危険に陥れてしまったなら、その困難を分かち合うものだと聞いている。一人だけ生き延びるわけにはいかぬ!」と言い、馬に鞭打って袁紹軍に突っ込んで死んだ《後漢書公孫瓚伝》。 |
関靖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 05:30 UTC 版)
関靖 | |
---|---|
後漢 前将軍長史 |
|
出生 | 生年不詳 并州太原郡 |
死去 | 建安4年(199年) 冀州河間国易県易京 |
拼音 | Guān Jìng |
字 | 士起 |
主君 | 公孫瓚 |
関 靖(かん せい、? - 199年)は、中国後漢時代末期の政治家・軍人。字は士起。并州太原郡の人。
事績
公孫瓚配下の長史。元は酷吏(厳罰主義の官吏)であり、上官に対し謙尊するばかりで雄大な計略の無い人物だった。このため、小人を信用するとの評があった公孫瓚には寵愛された。
建安3年(198年)、袁紹が公孫瓚に対して総攻撃を開始すると、公孫瓚は張燕に援軍を求めると同時に自ら城外に出撃することで袁紹軍の背後を突こうとしたが、関靖は物量や兵力の差を考えて易京に立て籠もる慎重策を進言し、公孫瓚に受け入れられた。なお南宋時代の史家胡三省は、公孫瓚の作戦が正解であったのに、関靖のせいで敗北することになったと指摘している。
建安4年(199年)、袁紹軍は地下道を掘って易京を陥落させ、ついに公孫瓚を滅ぼした。主君の敗北を知った関靖は、自分の進言が敗因となった事を嘆き、敵陣に突撃して主君と運命を共にした。関靖の首級は、袁紹の命により許へ送り届けられたという。
なお、小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
- 関 靖のページへのリンク