開発、混雑の激化と競合1900年-1918年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:36 UTC 版)
「エッジウェア・ハイゲート・アンド・ロンドン鉄道」の記事における「開発、混雑の激化と競合1900年-1918年」の解説
1900年代には、路線全体が混雑の激化への対応を迫られる状態となった。ヴィクトリア時代のロンドン市域の急速な拡大により、沿線のホーンジー(英語版)、ハイゲート、ミューゼル・ヒル、フィンチリーなどの人口が急増したが、この路線には石炭や建材を運ぶ貨物列車も走っていたことから列車の運行頻度が高く、グレート・ノーザン鉄道は線路容量拡大などの有効な対応が出来ずにいた。1903年には、ハイ・バーネットからの列車はイースト・フィンチリーですでに満員となって乗車できない状態になっており、当時の客車は内側から施錠できる構造だったことから一部の乗客が鍵を模造して駅に停車しても乗客が乗り込めないよう施錠してしまう問題も発生した。罵声が飛び交うだけではなく、喧嘩が起ることもしばしばだったと言われている。 1902年にはハイゲートとミューゼル・ヒルの間に新駅クランレー・ガーデンズが、1906年にはミル・ヒル・イーストとエッジウェアの間に新駅ミル・ヒルが開業している。 1905年にはヘンドン(英語版)とフィンチリーでの路面電車の運転が始まり、すぐにバーネットでも路面電車が開業した。自動車による旅客輸送の勃興と併せてグレート・ノーザン鉄道にとっての脅威となり、グレート・ノーザン鉄道は対抗のため、坂道での運転速度向上を目的とした新形蒸気機関車を導入した。 1907年6月にアーチウェイ、ゴルダーズ・グリーンまで開業した地下鉄の新路線、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道(英語:Charing Cross, Euston & Hampstead Railway、CCE&HR)も競合相手となったが、ゴルダーズ・グリーン(英語版)からの宅地開発がエッジウェアの南にも及ぶようになっていた。 グレート・ノーザン鉄道は1911年にミューゼルヒル・アンド・パレス鉄道と改名していたミューゼル・ヒル鉄道を買収したが、第一次世界大戦の勃発により沿線の開発は中断された。
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