開化派包摂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)
大院君は先の事件で大権を喪失していたが、永宣君を閔妃派によって流刑にされた報復を諦めず、開化派へ接近を図る。1895年、大院君は開化派を保護・支持して金弘集・兪吉濬などを抱き込み、一部の実権を掌握できた。大院君は閔妃暗殺を画策し始める。計画には東学農民軍の力や、ロシアの台頭で立場の行き詰った日本も引き込むことができると踏んだ。その読みどおり、新たに赴任してきた次期日本公使三浦梧楼は大院君と接触を持った。最初は慎重な態度を示すが、三浦梧楼によって監視を緩くされると次第に日本公使館に密かに出入りするようになり、兪吉濬らは何事かと聞いた。8月16日、閔妃暗殺の覚書に署名した。内容は大院君は宮中を監督し、国王を補佐する、だが政治に関しては口出ししないこととあった。この際長男完興君も署名した。翌日、大院君は自身の偉業と閔妃一族の悪行を記した告由文を漢城府全域に貼り付けさせた。閔妃派の後ろ盾についているロシアとフランス側は暗殺計画の存在を知って、早急に首謀者調べを行ったが、その対応は一足遅かった。
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