開化派排除
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)
戦時中の1894年9月、開化派の許曄・李秉煇は大院君の計略を摘発されるとすぐさま、大院君は開化派の李允用の官職剥奪をおこなった。さらに開化派暗殺計画を企て、刺客を集めて殺生簿(暗殺の標的リスト)を作って金嘉鎮・金鶴羽・金弘集・李完用・兪吉濬を上げて1894年9月14日から9月30日まで四回に渡って書簡を送り暗殺を命じた。警護がいない金鶴羽の他、日本軍の護衛がついている2人も殺害し、さらに他の開化派の暗殺を試みるがこれは果たせなかった。1894年10月中旬、事件を受けて日本側は大院君に引退を勧めるが大院君は拒絶。井上馨は金弘集[要曖昧さ回避]の内閣を設立し、翌年に入って金鶴羽殺害事件の首謀者に指名された永宣君は死刑を宣告されるが、大院君から井上馨への必死の説得で永宣君は流罪に減刑、大院君は雲峴宮に日本側の監視つきで事実上幽閉された。
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