長野政雄の殉職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 23:13 UTC 版)
1909年(明治42年)2月28日、8100形蒸気機関車牽引の名寄駅発旭川駅行き最終急行列車が塩狩峠の頂上付近(事故当時、当駅は未開業)に差し掛かった時最後尾の客車の連結器が外れ、逆行・逸走する列車分離事故が発生した。乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)旭川鉄道運輸事務所庶務主任の長野政雄が、デッキ上のハンドブレーキを操作して暴走する客車の停止を試みるもデッキから転落し、床下に巻き込まれ殉職した。しばらく走行した後に客車は停止し、乗客にけが人や犠牲者はなかった。 のちに三浦綾子によってこの話を元にした小説『塩狩峠』が発表され、映画化もされた。作品中では主人公・永野信夫が暴走する客車を停止させる最後の手段として、自分の体を車輪の歯止めにするべく、自らの意志でデッキから車両の前に飛び込み殉職したことになっているが、実際の事故では当事者死亡につき顛末の詳細は不明である。 現在は当駅付近に長野政雄の顕彰碑と塩狩峠記念館・文学碑が立てられている。
※この「長野政雄の殉職」の解説は、「塩狩駅」の解説の一部です。
「長野政雄の殉職」を含む「塩狩駅」の記事については、「塩狩駅」の概要を参照ください。
- 長野政雄の殉職のページへのリンク