長岡宮の朝堂とは? わかりやすく解説

長岡宮の朝堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 19:45 UTC 版)

朝堂」の記事における「長岡宮の朝堂」の解説

784年延暦3年)、桓武天皇は都を山背国乙訓郡長岡の地に遷都した。長岡京である。 この遷都について、岸俊男は、 桓武天皇即位直後延暦元年に、財政再建のため、造宮省廃止含めた冗費節約する旨の詔勅発しているにもかかわらずその2年後には遷都準備なされていること 延暦3年5月藤原小黒麻呂藤原種継らが乙訓郡派遣され、わずか半年後の同年11月遷都実現していること 藤原種継暗殺事件等を経て長岡京未完成のまま、わずか10年廃され794年延暦13年)には平安京遷都されたこと の3つ疑問点として提起している。 この疑問を解く鍵として岸は、長岡遷都は、平城京からの遷都であると同時に副都難波京からの遷都でもあり、すなわち複都制廃止意味していたことを数々文献より立証した従来営まれてきた2つの都を1つまとめようとしたとすれば緊縮政策1つとして造宮省廃止しながら長岡遷都断行したことの意味理解できる事実、下に示すように、長岡宮の朝堂院の規模従前までのいずれの宮よりも小さく朝堂殿舎の数は東西4堂で計8堂にすぎないまた、それぞれの殿舎も、 一堂~三堂 … 桁行7間(約27メートル)、梁行4間(約12メートル)、二面庇、切妻 四堂桁行9間(約35メートル)、梁行4間(約12メートル)、二面庇、切妻 であり、それまでの宮とくらべて小規模である。 なお、天皇私的住まいである内裏公的な政務の場である朝堂院はこれまでしだいに分離する傾向があったものの、平城宮までは内裏朝堂院南北接していた。しかし、長岡宮いたって完全に分離するいたったいっぽう大極殿朝堂との一体化進み朝堂正殿としての機能性格をいっそう強め大極殿朝堂朝集殿全体呼称する「朝堂院」の語が成立することとなった

※この「長岡宮の朝堂」の解説は、「朝堂」の解説の一部です。
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