長岡宮の朝堂
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784年(延暦3年)、桓武天皇は都を山背国乙訓郡長岡の地に遷都した。長岡京である。 この遷都について、岸俊男は、 桓武天皇は即位直後の延暦元年に、財政再建のため、造宮省の廃止を含めた冗費を節約する旨の詔勅を発しているにもかかわらず、その2年後には遷都の準備がなされていること 延暦3年5月に藤原小黒麻呂・藤原種継らが乙訓郡に派遣され、わずか半年後の同年11月に遷都が実現していること 藤原種継暗殺事件等を経て長岡京未完成のまま、わずか10年で廃され、794年(延暦13年)には平安京に遷都されたこと の3つを疑問点として提起している。 この疑問を解く鍵として岸は、長岡遷都は、平城京からの遷都であると同時に、副都難波京からの遷都でもあり、すなわち複都制の廃止を意味していたことを数々の文献より立証した。 従来営まれてきた2つの都を1つにまとめようとしたとすれば、緊縮政策の1つとして造宮省を廃止しながら長岡遷都を断行したことの意味が理解できる。事実、下に示すように、長岡宮の朝堂院の規模が従前までのいずれの宮よりも小さく、朝堂の殿舎の数は東西4堂で計8堂にすぎない。また、それぞれの殿舎も、 一堂~三堂 … 桁行7間(約27メートル)、梁行4間(約12メートル)、二面庇、切妻 四堂 … 桁行9間(約35メートル)、梁行4間(約12メートル)、二面庇、切妻 であり、それまでの宮とくらべて小規模である。 なお、天皇の私的住まいである内裏と公的な政務の場である朝堂院はこれまでしだいに分離する傾向があったものの、平城宮までは内裏と朝堂院は南北に接していた。しかし、長岡宮にいたって完全に分離するにいたった。いっぽう、大極殿は朝堂との一体化が進み、朝堂の正殿としての機能と性格をいっそう強め、大極殿・朝堂・朝集殿の全体を呼称する「朝堂院」の語が成立することとなった。
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