長岡城築城を計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:24 UTC 版)
慶長7年(1602年)、主君・秀治の弟で越後蔵王堂城主・堀親良は、直政と不和になり国政を顧みない兄・秀治にも不満があり出奔。親良は甥で秀治の次男・鶴千代を自分の養子として蔵王堂城主にした。直寄は鶴千代を補佐し、鶴千代が早世して蔵王堂藩が廃藩になると、坂戸と蔵王堂を兼務し5万石を領有した。蔵王堂城は長尾為景の弟・為重が築城した城だったが、信濃川の側で年々浸食が進んでいたので、上流の大島庄平潟原に築城の計画を立てる。この地が長岡と呼ばれるようになる。 語源には、神田表町千手の地が遠くから長い丘のように見えるから(『長岡市史』)、長岡京に似ているから(『越後往古城主付』)、御館の乱の頃にこの地を領した長岡縫殿介(ぬいのすけ)にちなんだから(『越後治乱記』)、など諸説ある。長岡が文書に出てくるのは慶長10年(1605年)に蔵王堂渡し守与助に、長岡渡しに場所を変更する、今まで通りの給米で雇う旨の文書が、鶴千代の老臣・堀甲斐守から出された時である。これ以後、長岡の名が文書に多く出てくる。 慶長13年(1608年)、父が死去した後、兄・直清が家督を継いだのを不満に思い対立する。慶長15年(1610年)、前年に直清が幼君直寄に訴えて直寄を追放し、これを直寄が徳川家康に訴えたため、直清と越後高田藩主で秀治の嫡男・堀忠俊は改易され、自身も1万石減封された(越後福嶋騒動)。直寄は信濃飯山藩4万石に転封され、長岡築城は中断。新たに高田藩主となった松平忠輝の家臣・山田勝重が蔵王堂城主になるが、高田城築城のため、任地を顧みる暇はなかったようである。
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