金氏_(奥州)とは? わかりやすく解説

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金氏 (奥州)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/26 07:21 UTC 版)

金氏(こんし)は、日本の氏族。奥州金氏気仙郡金氏磐井郡金氏安倍氏流金氏コン姓とも呼ばれる。

読み

「金」と表記して「こん」と発音する例は、『日本書紀』における金霜林(こむさうりむ、こんそうりん)、金薩慕(こむさちも、こんさつも)、金仁述(こむにんじゅち、こんにんじゅつ)等の人物に用例がある[1]ように、当時の金姓に対する一般的な読み方であったとされる。

出自

奥六郡の南隣気仙郡磐井郡を地盤とし、前九年合戦においても活躍をみせた金氏は、安倍氏清原氏と並び勢力を割拠した。

特に安倍氏とは密な婚姻関係を持っており、安倍為元は安倍氏直系の血族ではなく金氏出身の金為基が入婿した事による姻族であったと考察されている[2]等、独立した勢力であり、気仙・磐井における金氏の勢力伸長の経緯は陸奥国の開発・産金との関係で語られることが多い。

埼玉郡金氏

列島本州に定着した金姓の記録としては先ず、天平5年(733年)に武蔵国埼玉郡新羅人徳師(金徳師)等の男女53人が朝廷に対し金姓を名乗ることを要請し朝廷がこれを認めたというものがある[3]

朝廷が投化・帰化した三韓等の出身者に日本姓を下賜する例が多い中、対照的に新羅人が朝廷に金姓を要請した事例であり、東国の開発に従事した新羅人集団の中に新羅王族金氏始祖の金閼智の子孫を称する氏族がおり、金氏を名乗ったとされる[4]。つまり新羅の国姓である「金」を踏まえたものである。よって平安時代後期の陸奥国の豪族であった金為時の属する気仙郡金氏の始祖を金徳師とする説がある[5]

柴田郡金氏

陸奥国への金姓の移動の記録としては、天長元年(824年)、新羅人辛良、金貴賀、良水白等54人を陸奥国に安置したという記録がある[6]が、『倭名類聚抄』国郡部に陸奥国柴田郡新羅郷(宮城県柴田郡川崎町に比定)の記載があり、配置先として考察されている[7]。 この金貴賀が始祖となる金氏の系統である。

天長期の新羅人安置については気仙・胆沢方面に実施され、金鉱開発などにあたり、気仙郡金氏・磐井郡金氏の源流であるという説もある[8]

気仙郡金氏・磐井郡金氏

平安期以来、気仙郡・磐井郡(宮城県気仙沼市登米市及び石巻市の一部・本吉郡南三陸町岩手県一関市西磐井郡平泉町および奥州市の一部)を中心に勢力を有した豪族を指す。

その由緒は、安倍倉梯麻呂を遠祖とし、その後裔で貞観元年(859年)に初代気仙郡司として下向した安倍兵庫丞為勝(ためかつ)を始祖とし、貞観13年(871年)に郡内の金山から産出の金を朝廷に献上したことにより金姓を賜ったとしており、後世その末裔を伝える家は多く、金[9]、昆[9]、今[9]、近、紺、金野[9][10]、昆野[9]、今野[9]、紺野[9][10]、近野、横山氏[9] などもその流れを汲むといわれる。 岩手県大船渡市日頃市町の長安寺の傳には「金氏は安倍倉橋丸の裔孫」とある[11]

なお、各系図とも後裔の平安時代後期の陸奥国の豪族金為時(ためとき)について年代を同じくするが、その後は一致しない。次に合致するのは平泉藤原氏滅亡時の気仙郡の旧豪族金為俊の代である。

気仙郡金氏自体は俘囚呼ばわりされた例がないことから、非蝦夷系の在地豪族であり、10世紀以降のいわゆる国司受領化の動きに伴い没落した旧郡司層に代わって登場した新興郡司(郡司職の所有者)の類型に属するという考察がある[8]。この点から、天長元年(824年)陸奥国に安置された新羅人金貴賀を祖先とする可能性が指摘されている[8]

気仙郡における産金の功による金姓の獲得という点についても、金氏がその姓からして新羅系帰化人の蓋然性が高いという前提の元に仮説が試みられている[12]

  • 9世紀前半、新羅人が陸奥国に安置されていることが注目される。大宰府周辺では8世紀後半あたりから新羅人が来航し、その中には留住して交易活動に従事するものが出現した。天長8年(831)に朝廷は官符を出して、新羅人交易者を大宰府鴻臚館に安置し、官司先買と民間交易の管理を行う体制を整備したが、新羅人は大宰府周辺に土着しており、国際交易にも通暁していた。この頃から国際交易の活発化に伴い、日本の金の価値が格段に上昇している。また、大宰府には俘囚が移配され辺境防衛にあたっていたが、新羅人たちがこうした俘囚との交流によって陸奥国で金が採れるという情報を入手していたとすると、自らの配置・移住先に率先して陸奥国を選んだ可能性があり、陸奥産金以前の日本では金を新羅から輸入していた経緯からは、新羅に産金技術者が存在したことも推測される。
  • 承和年間の遣唐使を支えた産金地の白河郡には高句麗系渡来人の子孫の狛造智成らが居住していたが、新羅は旧高句麗・その後継国の渤海とは敵対関係にあったので、天長元年の新羅人は高句麗系の在地がある白河郡など陸奥南部ではなく、征夷によって新規に獲得した気仙・胆沢地方に遷され、金鉱開発等にあたった。

という仮説である。

人物

平泉藤原氏滅亡後、気仙郡司となり、気仙郡三千町余を与えられた(東磐井金氏系図)[16]

  • 金易右衛門は、江戸時代出羽国久保田藩に仕えた下級能吏である。実名は秀興で、俳名として小野人(おのんど)とも称した、姓は藤原氏で金はその氏である。父親は秀常、字は蔵人で、母親は根本氏であった。

末裔とされる氏族、姓

分布

脚注

  1. ^ 『日本書紀』 巻第三十 持統天皇元年九月甲申条
  2. ^ 遠藤(2009) p.42-46
  3. ^ 『続日本紀』天平五年六月丁酉
  4. ^ 太田(1934)p.2395
  5. ^ 宝賀(1986)p.1674
  6. ^ 『日本後紀』巻卅二逸文(『類聚国史』一五九口分田)天長元年五月癸未
  7. ^ 種部(1980) p.117-118
  8. ^ a b c 遠藤(2009) p.51
  9. ^ a b c d e f g h 『苗字の歴史』(中央公論社),p36
  10. ^ a b c 太田 1934, p. 2395.
  11. ^ 『新編 姓氏家系辞典』 P.597
  12. ^ 新井(2009) p.19
  13. ^ a b c d e 岩手日報 平泉への道 8.気仙郡と金氏一族[リンク切れ]
  14. ^ 十訓抄
  15. ^ 岩手県 1961a, p. 4.
  16. ^ 岩手県 1961a, pp. 3–4.
  17. ^ 『全国名字辞典』130P、森岡浩、東京堂出版、1997年、ISBN 978-4490104547
  18. ^ 『県別名字ランキング事典』13P、森岡浩、東京堂出版、2009年、ISBN 978-4490107739

参考文献

関連項目

外部リンク




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