金房正真と同一人物説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 14:59 UTC 版)
「文殊」とは手掻派の別名であるが、金房派の正真と同一人物説とする説が古来よりあった(金房派自体が末手掻の末流だという説もある)。実際、金房派は宝蔵院流槍術との関わりが深く、天下三名槍の一つ日本号も金房派の作と考えられるから、蜻蛉切の作者とするのは説得力があったと考えられる。 寛政8年(1796年)に出版された『本朝鍛冶考』によれば、「正真 後柏原天皇の御代、文亀永正(まとめると1501–1521年)のころの人。大和国の文殊の末裔である。思うに、金房一門であろう」「正真は文亀・永正・大永(まとめると1501–1528年)のころの人。大和の文殊の一類が当国田原に居住。太刀の様といい大小といい手揆物(手掻物)のようだ。地鉄締まり、沸細かく匂深し。上手である。その作には蜻蛉切という名物の槍がある。思うに、金房の同名人物と同一かどうかははっきりとしない」 『本朝鍛冶考』の時点では曖昧な表現だったが、後に出版された山田浅右衛門『古今鍛冶備考』(文政13年(1830年))は、「藤原正真と切る。三河田原住、本国は大和で南都金房一派、三河文殊を名乗った。本多家の十方切(あるいは蜻蛉切)の作者。天文(1532-1555)ごろの人」と言い切っている。
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