醤油醸造組合の時代
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醤油屋仲間は水野忠邦による天保の改革で株仲間の解散が命じられた後も存続し、1872年(明治5年)に解散、同業組合に移行し、1895年(明治28年)に土浦醤油醸造組合へ名称変更した。1898年(明治31年)度の柴沼醤油の醤油醸造量は1,118石(約201kL)であり、土浦醤油醸造組合全体の4分の1にあたる量を生産していた。 さらに土浦醤油醸造組合は石岡の組合と合流、1911年(明治44年)2月25日に「新治郡醤油醸造組合」が発足した。同年度の柴沼醤油合名会社の生産高は2,921石(約527kL)まで伸びている。一方で、土浦の醤油醸造業界を牽引してきた大黒屋勘兵衛は醤油醸造業および土浦から退き、東京・日本橋の支店を本拠に移して食品卸業者の国分株式会社となった。国分は大久保武右衛門に醤油醸造業を譲り、大久保は「かね大」の商標で醤油を生産していたが、戦中に閉鎖された。色川三郎兵衛は1883年(明治16年)にオランダで開かれた万国博覧会で金牌を獲得するなど評価されたが、霞ヶ浦への堤防建設に私財を使い廃業した。色川三郎兵衛の醤油屋跡には土浦警察署が建設された。 1918年(大正7年)の筑波鉄道筑波線開通に際して、それまで荷馬車や桜川の水運に頼っていた柴沼醤油は、「これからの出荷は鉄道だ」として誘致運動を開始、筑波鉄道の株式購入、駅舎の建設用地1,000坪(3305.785m2)を無償で提供した。鉄道誘致は耕地をつぶされるだけだとして、住民の猛反発を受けたが、賛成派代表として柴沼良之助は尽力し、常名(ひたな)経由で建設される予定だった鉄道を工場付近に敷設することに成功した。 昭和初期になると、満州(現中国東北区)からダイズの輸入が始まり、地場産業としての土浦の醤油醸造の利点が失われ、1942年(昭和17年)からは戦時体制による業者の移転・廃業が相次いだ。
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