邶風・鄘風・衛風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 05:19 UTC 版)
邶風十九篇、次の鄘風十篇、衛風十篇は本来すべて衛国の歌であった。『春秋左氏伝』に襄公二十九年に呉の季札が魯を訪れた際、邶・鄘・衛の歌を聞き、「其れ衛の風か」と、三国風をまとめて衛風と呼んでいること、また同じく『春秋左氏伝』襄公三十一年に邶風「柏舟」篇の二句「威儀棣棣、不可選也」を引いて「衛詩」と言っていることからそれはわかる。『漢書』芸文志によれば魯・斉・韓の『三家詩』は二十八巻であり、『毛詩故訓伝』は三十巻である。それは『毛詩』が三巻に分けたまた邶・鄘・衛の詩を、『三家詩』は一巻としてまとめていたためである。つまり邶風・鄘風・衛風の所謂「三衛」は、等しく一国(衛)に帰すると考えて間違いない[要出典]のである。なぜ本来ひとまとまりであった衛風を、邶風・鄘風・衛風の三風に分けたということについては、衛の詩があまりにも多い(三十九篇)ので、古い地名を借りて邶・鄘・衛の三国風都名付けたであろう王国維の説で納得できよう。 邶は『説文』に「邶は故の商の邑、河内朝歌以北是れなり」とあり、武王に滅ぼされた商(殷)の都のある土地だった。鄭玄の『詩譜』によれば、武王が紂王(帝辛)を伐った後、その都を紂王の子の武庚に封じ、その地を三分して管叔鮮・蔡叔度・霍叔処の三監を置いて監督とした。そして紂王の城(朝歌)より北を邶と言い、南を鄘と言い、東を衛と言った、という。しかし、邶・鄘・衛という称は必ずしも武王伐紂の後のものと考えられず、三者の位置関係については未だ明らかになっていない。いずれにしてもこの三国風はみなかつて殷の国として栄えた土地の歌謡である[要出典]。 『毛詩大序』では周南・召南の正風のように安定した歌いぶりに比べ、邶風以下十三風は嘆きや憂いを訴えるものが多く見られるため、変風と呼ばれている。
※この「邶風・鄘風・衛風」の解説は、「十五国風」の解説の一部です。
「邶風・鄘風・衛風」を含む「十五国風」の記事については、「十五国風」の概要を参照ください。
- 邶風鄘風衛風のページへのリンク