道隆時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 15:13 UTC 版)
正暦1年(990年)7月の兼家の死後、東三条殿は父の後を継いで摂関となっていた嫡男道隆に継承されたと見られる。同年10月に、中宮藤原定子は東三条第より入内している 。また、引き続き詮子の里第として用いられたらしく、詮子は幾度か内裏から職御曹司を経て東三条第(南院)に下っている。 翌年の正暦2年(991年)9月、詮子は職御曹司で出家して日本最初の女院となり、この居宅の名より「東三条院」を院号とした。ただ、11月に内裏を退出して以降は、道長の土御門殿を御所とし、東三条殿に住むことはなかった 。 正暦4年(993年)3月、摂政道隆の邸宅であった東三条第の南院が全焼する。本院は焼失を免れたらしく、南院もすぐに再建され、翌年11月には完成した。『大鏡』には、この頃に道隆嫡男の伊周が南院において弓の遊びを開催した際に、思いかけずやってきた道長を道隆が歓待したが、弓の勝負で自家の繁栄を誓言した道長が勝って青ざめたという逸話が伝えられている(ただしこの南院は伊周邸の二条殿とする解釈もある)。また、長徳元年(995年)1月、冷泉上皇の御所鴨院が焼亡した際には、近傍ということもあり、東三条第に難を逃れている。長徳元年(995年)4月、病の重くなった道隆は南院で出家した後、薨じた。
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