軍事・行政政策
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「ウィリアム・フィップス」の記事における「軍事・行政政策」の解説
1690年の遠征の後、フランスとインディアンは奇襲を再開し、そのためフィップスはマサチューセッツ湾植民地の防御の強化に努めた。1692年、イングランド本国からの命令に従って、フィップスは石造りの砦の建設を監督した。この砦はウィリアム・ヘンリー砦と名付けられた。この砦が建てられたのは、かつてのペマキドの包囲戦の際に、木造の砦が建てられていたペマキド(現メイン州ブリストル)だった。この砦に使われた経費に対し、植民地内では批判が高まった。フィップスは、隣接する植民地と協調して防御強化を目論んだが、この計画は彼の人格や気質が荒っぽさによって困難をきたし、台無しになった。隣接植民地との関係が改善されたのは、彼が失脚してからだった。 フィップスはまた、メインでのインディアンとの戦いに備えて、450人部隊を派遣し、ベンジャミン・チャーチに指揮を執らせた 。1693年8月、フィップスはアベナキ族との、さして重要とも言えない平和合意に達したが、結局はフランスの陰謀によって覆され、インディアンたちに再び武器を取らせることとなって、長続きさせるには至らなかった。 フィップスの行政の特色は派閥主義であり、人脈の欠如が地元の政治家の批判を生んだ 。さらに、ロンドンに駐在していた、マサチューセッツ生まれにして、かつてのドミニオンの行政官であったジョセフ・ダドリーが、フィップスに代わって総督の地位に着くことを企んでいた。フィップスは友人や、政敵や、政府の役人と頻繁に口論をした。彼の伝記の作者たちはこの行為を「たけり狂う攻撃性」と書き、同時代の人間達は彼の「教育水準の低さ」に不満を漏らした。
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