踏路社映画芸術協会時代とは? わかりやすく解説

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踏路社・映画芸術協会時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 15:57 UTC 版)

村田実」の記事における「踏路社・映画芸術協会時代」の解説

1917年大正6年2月、心を新しくして青山杉作近藤伊与吉、後のドイツ語学関口存男らと新劇団・踏路社を結成し芸術倶楽部長与善郎作『画家とその弟子』を公演。この時、関口助言で、日本初めて「演出」という言葉使ったとされる1918年大正7年)、踏路社の仲間帰山教正映画製作参加し、『生の輝き』『深山の乙女』(帰山教正監督)に出演近藤伊与吉回想によると『生の輝き』のシナリオ読んだ際、村田帰山に「脚本作法と言うものは吾々には解らないが、そのままではその脚本新派ですよ」と発言し帰山近藤と三晩徹夜してシナリオ直したという。これにより新劇から映画情熱的にうちこむようになった。後に帰山映画芸術協会名乗って映画製作行い村田彼の作品出演するが、1919年大正8年)の『さらば青春』(近藤伊与吉監督)で演出意見衝突により脱退同年には『東京日日新聞主催乙種活動写真全年齢対象)向けの脚本募集二位入選している(一位は後の東宝専務森岩雄三位は後の松竹蒲田脚本家北村小松)。

※この「踏路社・映画芸術協会時代」の解説は、「村田実」の解説の一部です。
「踏路社・映画芸術協会時代」を含む「村田実」の記事については、「村田実」の概要を参照ください。

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