踏路社・映画芸術協会時代
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1917年(大正6年)2月、心を新しくして青山杉作、近藤伊与吉、後のドイツ語学者関口存男らと新劇団・踏路社を結成し、芸術倶楽部で長与善郎作『画家とその弟子』を公演。この時、関口の助言で、日本で初めて「演出」という言葉を使ったとされる。1918年(大正7年)、踏路社の仲間と帰山教正の映画製作に参加し、『生の輝き』『深山の乙女』(帰山教正監督)に出演。近藤伊与吉の回想によると『生の輝き』のシナリオを読んだ際、村田が帰山に「脚本の作法と言うものは吾々には解らないが、そのままではその脚本は新派ですよ」と発言し、帰山・近藤と三晩徹夜してシナリオを直したという。これにより新劇から映画に情熱的にうちこむようになった。後に帰山は映画芸術協会を名乗って映画製作を行い、村田も彼の作品に出演するが、1919年(大正8年)の『さらば青春』(近藤伊与吉監督)で演出意見の衝突により脱退。同年には『東京日日新聞』主催の乙種活動写真(全年齢対象)向けの脚本募集に二位入選している(一位は後の東宝専務の森岩雄、三位は後の松竹蒲田の脚本家北村小松)。
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