貴族になる前のパーシー家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:43 UTC 版)
「パーシー家」の記事における「貴族になる前のパーシー家」の解説
パーシーの家名はフランス北部ノルマンディー地方に複数存在する地名ペルシーに由来する。由来地として最も有力なのはペルシー・アン・オージュ(フランス語版)である。伝承ではパーシー家は9世紀のデーン人の海賊メインフレッド(Mainfred)を遠祖とし、その息子のジェフリーが初代ノルマンディー公ロロに従ってフランス北部に移住したのだというが、この経緯は伝承の域を出ていない。 家祖のウィリアム・ド・パーシー(英語版)(?-1096/9)はノルマンディー公の家臣だったが、ノルマン・コンクエスト後の1067年にイングランドに渡った。1086年の土地台帳にはヨークシャーに荘園を所有している人物として彼の名前が出てくる。1072年にはウィリアム1世のスコットランド遠征に従軍し、1096年には十字軍に参加してエルサレムで死去している。 彼の子孫たちはヨークシャーやノーサンバランドなどの荘園を世襲し続け、イングランド北東部に大きな影響力を持った。彼の同名の孫であるウィリアム・ド・パーシー(?-1174/5)が死去した際に最初の男系の断絶が起こり、娘のアグネス・ド・パーシー(1134-1205)と結婚していたジョスリン・オブ・ルーヴァン(英語版)がパーシー家の領地を継いだ。彼はフランドル貴族ルーヴァン伯爵家(英語版)の出身であり、ヘンリー1世の王妃アデライザ・オブ・ルーヴァンの兄弟でもあったので、ルーヴァン家の方が当時のパーシー家より家格が上だったと思われるが、この夫妻の子孫はルーヴァンではなくパーシーを名乗っている。 夫妻の子であるリチャード・ド・パーシー(英語版)(1170頃-1244)は、ジョン王の失政を糾弾して大憲章(マグナカルタ)の履行を監視する25人のバロンの一人となった。その甥のウィリアム・ド・パーシー(1183頃-1245)も反乱バロンたちに加わってジョン王に対抗したが、後に恭順している。その子ヘンリー・ド・パーシー(1228頃–1272)は、ヘンリー3世に忠実で1264年にルイスの戦いで王に与して敗れている。
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