豊姫伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:02 UTC 版)
延暦の昔(782-806年)小友沼の西方の丘に一向館があり、この城主の姫君を豊姫といわれ、富潤美貌であった。諸侯から毎日のようにもらい受けの使者があった。しかし、どうしたものか姫はそれには一切ふれれず、専心たしなむ機織の業に侍女たちとともにいそしんでいた。館の東北に一つの森があり、その中にくめどもつきない清水の泉が湧き出る小沼があった。姫の侍女たちは織られる錦織、呉織、綾織など、この小沼に運んでは水に浸していた。この小沼を布晒沼(ぬのさらしぬま)といっている。浸した織物は、またそれをいちいち丘の上に広げてほしたので、その白さは遠くに見え、米白(米代)の浦に入る船のめやすとなり、この浦を豊姫の浦というようになった。かくて何百年も年月がたち、一向館の地には古の城の基礎石までも失せ、豊姫の浦もいつしか水涸れて米代の河原は只荒涼とした世になったが、小友の堤や布晒の沼に注ぐ夕の雨に紛れ、あるいは一向館を渡る浅野風に混じって機を織る音がかすかに昔の豊姫の浦の岸辺にある集落に聞こえたので、ここを機織(はたおり)村と呼んだとのことである。1815年(文化12年)の「仁井田古跡遺伝記録」の原文は「仁井田村の郷は遠く延暦のむかしを探れば、繁栄名におう姫の津とかや。エゾの船人も袖をひきつどいし里と聞きはべる…小友堤東山崎下に布さらしと云沼あり。此沼のぬし美女なり。往古に外に出て布さらし居りたるとなり。又天気よく静かなる時沼の辺に立ち聞けば、沼の底にて機(はた)おる音きこえしとなり。此由来にてや、機織村と云新村開く云々」というものであった。 当時は異国船も豊姫の浦に出入りをしており、今の仁井田倫勝寺境内にある大槻に船をつないで風波を凌ぎ、上陸の便としたという。布晒沼は現在葦原になっているが、1960年代の航空写真では沼を確認することができる。
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