護衛部隊のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/25 07:06 UTC 版)
4月2日、ヒ88J船団護衛部隊の生き残りは、香港から日本本土へ向かうホモ03船団を護衛することになった。船団名は、香港発・門司行きの3番目の船団を意味する。船団の便乗者には、第901海軍航空隊関係者約400人が含まれていた。出航準備中にも連日の空襲が続き、4月3日に極東空軍のB-24爆撃機により海防艦満珠は大破着底して参加不能になった。 4月4日夕刻、ホモ03船団は香港を出港した。翌未明には早くも空襲が始まり、5日午前3時にPBM飛行艇により貨物船の第2東海丸(東海汽船:839総トン)が撃沈された。第9号駆潜艇も損傷した。5日午後3時にも第5空軍の戦爆連合9機の空襲があり、貨物船の甲子丸(大阪商船:2193総トン)が至近弾により浸水沈没した。乗船していた便乗者517名のうち56人が戦死したほか、貨物1000トンが海没した。駆潜艇2隻は溺者救助の後に香港へ引き返した。 その後、健在な海防艦2隻が先行し、速度の出ない天津風が取り残される形で航行を続けたが、4月6日昼にルソン島から飛来した第345爆撃群所属のB-25爆撃機24機により捕捉された。第1号海防艦と第134号海防艦はいずれも爆弾の直撃を受けて撃沈され、前者の乗員は漂流中に機銃掃射を受けて全員戦死した。天津風も損傷し、廈門までたどり着いて自ら擱座した。遅まきながら日本側の戦闘機2-3機が発進し、それに気付いたB-25は天津風への攻撃を打ち切って帰還した。アメリカ側は対空砲火により3機を失った。
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