警察事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 02:14 UTC 版)
「ラトクリフ街道殺人事件」の記事における「警察事情」の解説
1810年代当時のイギリスの警察事情は、近代と比較すると非常に杜撰なものであった。ウィリアムズの拘置に至るまでは、噂話だけを鵜呑みにして数十人に上る容疑者が拘置され、その大部分は前述のような偏見から外国人、そして泥酔者、精神疾患者たちであった。 ウィリアムズの泊っていた宿や洋品店の物証である工具類をさらに調査すれば真相解明に繋がった可能性もあるが、当局ではウィリアムズの拘置時点で、それ以上の捜査は行われなかった。工具類の所持者はウィリアムズ拘置後に判明していたが、その者のアリバイが調べられることもなかった。また工具にイニシャルが彫られているのがわかったのは、事件発生から10日以上も経ってからのことである。 ウィリアムズの死も、当時の状況から本当に自殺かどうか疑問視されており、最後にウィリアムズの姿を見た者は自信をもって「これはまったくの見当違いだ」と述べている。仮にウィリアムズが真犯人であったとしても、洋品店の事件では前述のように2組の足跡が残されており、複数人の不審者が目撃されている。また物証である工具類は重く、1人でそれらを運んで店内に侵入することは無理があり、ウィリアムズの単独犯行は困難とも考えられている。 ロンドンでは本事件を機に、当時の治安対策が時代遅れであることが明白となり、全国的な警察組織の必要性が活発に論じられ始めた。当時の内務大臣リチャード・ライダー(英語版)も事件翌年の1812年にいち早く警察制度の特別委員会を設置し、警察力増強の法案成立に尽力した。しかしこの委員会の席上において、外務大臣ジョージ・カニングは以下のように発言している。 パリにはすばらしい警察があるが、市民は莫大な税金を支払わされている。わたしは家宅捜査やスパイ活動といったフーシェの装置にしばられるくらいなら、3年か4年に一度、ラトクリフ街道で誰かの喉が掻き切られるほうがまだましだ。 — 林田 2002, p. 76より引用 結局、警察力増強には7万4000ポンドもの経費を要することから、当時の法案は否決された。ロンドンでの近代警察組織の実現は、その後の1829年のロンドン警視庁(スコットランドヤード)設立を待つことになる。
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