親ベトナム政権の樹立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 10:16 UTC 版)
「ヘン・サムリン」の記事における「親ベトナム政権の樹立」の解説
1978年12月2日、ベトナム国境付近のカンボジア領内において、反ポル・ポト抵抗組織「カンプチア救国民族統一戦線」の結成式が執り行われ、ヘン・サムリンが戦線議長に就任した。12月25日、ベトナム軍とともにカンボジアに進撃した。翌1979年1月5日から、コンポンチャム州ミモトにおいて、かつてのインドシナ共産党の流れを汲むカンプチア人民革命党の「再建大会」(第3回党大会)が開催され、7日には7人からなる党常任委員会の委員に選出された。同日、首都プノンペンが陥落し、翌8日にはヘン・サムリンを議長とする人民革命評議会の設立を発表。10日、「カンプチア人民共和国」の樹立を宣言した。 1981年5月、第4回党大会において党政治局員に選出され、党内序列第2位となる。6月、第1回国会において新憲法が採択され、新設の国家評議会議長(国家元首)に就任。同年、ペン・ソバン首相兼党書記長が失脚すると、12月2日の第4期党中央委員会第2回総会において、後継の書記長に選出された。 議長就任後もタイ国境でクメール・ルージュおよび他勢力からの武力抵抗に直面したほか、ベトナム軍の支援を受けた政権として多くの国から政府承認を得られず、国連の議席もクメール・ルージュらの「民主カンプチア連合政府」に握られたままであった。 1985年10月の第5回党大会においては、政治局員および書記長に再選出され、序列第1位となる。1989年の憲法改正により、「カンプチア人民共和国」から「カンボジア国」に改称されたが、引き続き国家評議会議長を務めた。 1991年10月18日、カンプチア人民革命党臨時党大会が開催され、「カンボジア人民党」に改組されるとともに、党中央委員会名誉議長に選出された。
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