覆面レスラーへの転身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 08:13 UTC 版)
1996年7月、ヨーロッパ遠征へ出発。そのさい、現地のプロモーターだったオットー・ワンツの要請を受け、マスクマン「ケンドー・カ・シン」となる(後に"カシン"に改名)。後に同年12月に遠征先のドイツ・ブレーメンで受けた週刊プロレスのインタビューで「マスクマンになったのはオットー・ワンツの要請だよ。ケンドー・カ・シンというリングネームも全部ワンツが考えた。カ・シンの意味は分からない」と述べている。金澤克彦のインタビューの中では、出発前にオットーに「マスクを持ってこい」と要求された際、当時の新日本の社長に「じゃあエル・サムライのマスクを持っていけ」と言われた事を語っている。またその際「やだなぁ」と思ったという。 1997年4月、凱旋帰国しケンドー・カ・シンとして帰国第一戦、山崎一夫とシングルマッチで対戦。UWFの流れを汲む山崎相手にグラウンドの攻防やマウント掌底など、格闘技色の強いプロレスを展開するが、当時の新日本ファンからは受け入れられず、失笑を買ってしまう結果となる。同年、10月16日の新日本四日市興行の試合後、「オレは別にいつ辞めたっていいしね。全然プロレス界に必要な人間じゃないし。潰すか潰されるか、それだけだ」とインタビューで発言。 1998年6月、アメリカで受けた週刊プロレスのインタビューで凱旋帰国第一戦時のことを「はじめ日本に帰ってきた時、みんなが素顔でやるものと思ってた。でも、オレ自身のなかで、せっかくヨーロッパでマスクを被ってやって来て、現地でもウケてたし自信もあった」と発言。その上で、「そう思って帰国して最初の試合でみんなに笑われた。その笑われた時点でマスクをずっと被ろうと決心した」と、覆面レスラーを続けるに至った経緯を述べている。
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覆面レスラーへの転身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 19:13 UTC 版)
「ケンドー・カシン」の記事における「覆面レスラーへの転身」の解説
1996年7月、ヨーロッパ遠征へ出発。そのさい、現地のプロモーターだったオットー・ワンツの要請を受け、マスクマン「ケンドー・カ・シン」となる(後に"カシン"に改名)。後に同年12月に遠征先のドイツ・ブレーメンで受けた週刊プロレスのインタビューで「マスクマンになったのはオットー・ワンツの要請だよ。ケンドー・カ・シンというリングネームも全部ワンツが考えた。カ・シンの意味は分からない」と述べている。金澤克彦のインタビューの中では、出発前にオットーに「マスクを持ってこい」と要求された際、当時の新日本の社長に「じゃあエル・サムライのマスクを持っていけ」と言われた事を語っている。またその際「やだなぁ」と思ったという。 1997年4月、凱旋帰国しケンドー・カ・シンとして帰国第一戦、山崎一夫とシングルマッチで対戦。UWFの流れを汲む山崎相手にグラウンドの攻防やマウント掌底など、格闘技色の強いプロレスを展開するが、当時の新日本ファンからは受け入れられず、失笑を買ってしまう結果となる。同年、10月16日の新日本四日市興行の試合後、「オレは別にいつ辞めたっていいしね。全然プロレス界に必要な人間じゃないし。潰すか潰されるか、それだけだ」とインタビューで発言。 1998年6月、アメリカで受けた週刊プロレスのインタビューで凱旋帰国第一戦時のことを「はじめ日本に帰ってきた時、みんなが素顔でやるものと思ってた。でも、オレ自身のなかで、せっかくヨーロッパでマスクを被ってやって来て、現地でもウケてたし自信もあった」と発言。その上で、「そう思って帰国して最初の試合でみんなに笑われた。その笑われた時点でマスクをずっと被ろうと決心した」と、覆面レスラーを続けるに至った経緯を述べている。
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