藤田勇 (新聞記者)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/05 04:42 UTC 版)
藤田 勇(ふじた いさむ、1887年-没年不詳)は日本の新聞記者、実業家、阿片ブローカー、フィクサー。『東京毎日新聞』や『報知新聞』の記者を経て1919年に東京毎日新聞社社長となり、「厳正非中立」を掲げて組合運動や社会主義者、アナキストを支援。1923年にはヨッフェ訪日を実現させた。他方で貴族院の「研究会」の黒幕となり、日中戦争期には上海への麻薬の密輸に携わった。[1]
- ^ この記事の主な出典は、小田部 (1988, pp. 74–76)および中野 (1977, pp. 116–121, 186–192)
- ^ 小田部 1988, p. 74.
- ^ a b c d e f 小田部 1988, p. 75.
- ^ 中野 1977, p. 119.
- ^ 中野 1977, pp. 119–120.
- ^ 中野 1977, p. 120.
- ^ a b 中野 1977, pp. 116–118.
- ^ 中野 1977, pp. 118–119.
- ^ 中野 1977, pp. 119–121.
- ^ 中野 1977, p. 187.
- ^ 中野 1977, pp. 187–188.
- ^ a b 中野 1977, p. 188.
- ^ 中野 1977, pp. 188–189.
- ^ a b 中野 1977, p. 118.
- ^ 小田部 (1988, p. 76)は、満州事変や十月事件の謀略資金は、藤田が阿片密輸によって得た莫大な利潤を大川周明や河本大作らに提供したもので、その額は63万円に達したとされる、としている。
- ^ a b 中野 1977, p. 167.
- ^ 小田部 (1988, p. 76)。20万ポンドは、阿片中毒患者6万人の年間消費量に相当する莫大な量(同)。
- ^ 中野 1977, pp. 186–187, 189.
- ^ 小田部 1988, p. 76.
- ^ a b 中野 1977, p. 189.
- ^ 中野 1977, pp. 190–191.
- ^ 中野 (1977, pp. 186, 192)には、1937年11月に慰問団に参加し上海を訪問した徳川義親のもとを、麻薬取引の後始末で上海に来ていた藤田が訪れた、との記載があり、この話は、小田部 (1988, pp. 76, 109)でも徳川義親『最後の殿様』(講談社、1973年)にある話として紹介されており、藤田は徳川に柿やストーブを差し入れた、とされる。
- ^ a b 中野 1977, p. 211.
- ^ 中野 1977, pp. 218–219.
- ^ 中野 1977, pp. 221–222.
- ^ 小田部 1988, p. 198.
- ^ 中野 1977, p. 226.
- ^ 中野 1977, pp. 225–227.
- 1 藤田勇 (新聞記者)とは
- 2 藤田勇 (新聞記者)の概要
- 3 関連文献
- 4 脚注
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