藤原能実
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/22 06:52 UTC 版)
|
|
---|---|
時代 | 平安時代後期 |
生誕 | 延久2年(1070年) |
死没 | 長承元年9月10日(1132年10月20日) |
別名 | 小野宮大納言[1] |
官位 | 正二位、大納言 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流 |
父母 | 父:藤原師実、母:藤原基貞の娘 |
兄弟 | 覚実、仁源、師通、家忠、覚信、経実、静意、澄真、能実、忠教、仁澄、尋範、行玄、増智、永実、玄覚、忠長、 藤原基隆室など 養兄弟:賢子(源顕房娘)、 篤子内親王(後三条天皇皇女) |
妻 | 出雲守基仲の娘、藤原祐家の娘、光清の娘 |
子 | 基能、忠頼、真勝、中納言忠季室、源師頼室、藤原宗能室、源師隆室、藤原忠宗室 |
藤原 能実(ふじわら の よしざね)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原師実の四男。官位は正二位・大納言。小野宮大納言と号した。
経歴
白河朝の永保2年(1082年)元服して従五位上に叙され、侍従次いで左近衛権少将に任官。翌永保3年(1083年)正五位下・左近衛中将、応徳2年(1085年)従四位下、応徳3年(1086年)従四位上・蔵人頭、寛治元年(1087年)5月に正四位下と、摂関家の子弟として順調に昇進し、同年11月に従三位に叙せられ公卿に列した。まもなく近衛中将から侍従に遷り、寛治7年(1093年)篤子内親王が中宮に立てられると中宮権大夫を兼ねる。また、同年には正三位への昇叙を受けている。
嘉保3年(1096年)参議に任ぜられると、翌永長2年(1097年)には左兵衛督も兼帯した。康和元年(1099年)権中納言に昇進し、引き続き左兵衛督・中宮権大夫の兼官を帯び続けた。その後、康和2年(1100年)従二位、康和4年(1102年)正二位と昇進を重ね、長治元年(1104年)には検非違使別当も兼ねるが、天仁元年(1108年)に別当を辞している。
永久3年(1115年)中納言に昇進し、保安3年(1122年)大納言に至る。また、同年には皇后・藤原璋子の皇后宮大夫を兼ねた。
かねてより飲水病(糖尿病)を病んでおり、大治4年(1129年)鳥羽院政が開始される頃より出仕ができなくなる。長承元年(1132年)には腫れ物も病み、同年8月18日に出家し、9月10日に薨去[2]。享年63。
官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
- 永保2年(1082年) 正月:元服、従五位上。正月21日:侍従。2月28日:左近衛権少将
- 永保3年(1083年) 正月6日:正五位下(労)[3]。2月1日:左近衛(権)中将[3]、兼美作介
- 応徳2年(1085年) 正月6日:従四位下(労)[3]
- 応徳3年(1086年) 12月8日:蔵人頭。12月16日:従四位上(院御給、御即位)
- 寛治元年(1087年) 正月25日:止美作介[3]。5月21日:正四位下(太上皇御幸平等院日賞)。11月10日:兼備中権守。11月18日:従三位(大嘗会国司主基)[3]。12月13日:兼侍従、止中将[3]
- 寛治6年(1092年) 正月:兼周防権守
- 寛治7年(1093年) 正月3日:正三位。2月22日:中宮権大夫(篤子内親王立后日)、侍従如元
- 嘉保3年(1096年) 正月:参議
- 永長2年(1097年) 正月:兼左兵衛督、丹波権守
- 康和元年(1099年) 12月:権中納言、督権大夫等如元
- 康和2年(1100年) 正月17日:従二位(春日行幸行事賞)
- 康和3年(1101年) 2月13日:服解(父)。3月15日:復任
- 康和4年(1102年) 3月20日:正二位(御賀日賞、中宮権大夫)
- 長治元年(1104年) 11月:検非違使別当
- 天仁元年(1108年) 9月18日:辞別当。10月14日:右衛門督
- 天永2年(1111年) 正月23日:左衛門督
- 永久2年(1114年) 10月1日:止大夫(依宮崩給也)
- 永久3年(1115年) 4月28日:中納言
- 保安3年(1122年) 12月17日:大納言。12月21日:兼皇后宮大夫(皇后・藤原璋子)
- 長承元年(1132年) 8月18日:出家。9月10日:薨去[4]
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
参考文献
固有名詞の分類
- 藤原能実のページへのリンク