藤原実衡とは? わかりやすく解説

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藤原実衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/12 09:27 UTC 版)

 
藤原 実衡
時代 平安時代後期
生誕 康和2年 (1100年
死没 永治2年2月8日1142年3月7日
別名 高松中納言
官位 従三位権中納言
主君 堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇
氏族 藤原北家閑院流
父母 父:藤原仲実、母:藤原顕季の次女
兄弟 実衡、公頼、藤原実隆室、季輔、季重、季兼、実命、円良、藤原宗能
真如房尼(吉田経房の叔母)
実暁、衡範
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藤原 実衡(ふじわら の さねひら)は、平安時代後期の公卿藤原北家閑院流権大納言藤原仲実の長男。官位は従三位権中納言高松中納言と称した[1]

経歴

堀河朝長治2年(1105年叙爵鳥羽朝天永3年(1112年侍従に任官し、翌年昇殿永久3年(1115年従五位上右近衛少将に叙せられると、永久4年(1116年正五位下保安3年(1122年)右近衛中将、天治3年(1126年従四位上大治3年(1128年播磨権守と、鳥羽朝に近衛次将と地方官を務めながら昇進を重ねた。

長承2年(1133年)に蔵人頭に補せられると、翌長承3年(1134年参議に任ぜられ公卿に列する。議政官の傍らで引き続き中将を兼帯し、この間の保延5年(1139年従三位に昇叙されている。

保延6年(1140年)に権中納言に昇進。しかし、2年後の永治2年(1142年)2月8日に薨去。享年43。死因は「邪気」とされる[2]

実衡死後の久安4年(1148年)、妻の真如房尼が亡き夫の菩提を弔うために、三千院往生極楽院を建立した[3][4]

官歴

公卿補任』による

系譜

脚注

  1. ^ 蝉折 - 名刀幻想辞典”. meitou.info. 2025年6月12日閲覧。
  2. ^ 『公卿補任』
  3. ^ a b 三訂版,デジタル大辞泉プラス, デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,日本歴史地名大系,日本大百科全書(ニッポニカ),改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社日本史事典. “三千院(サンゼンイン)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年6月12日閲覧。
  4. ^ 念仏の里、大原に里に響く魚山声明の旋律 三千院へ”. 古寺とお城の旅日記 (2015年7月19日). 2025年6月12日閲覧。
  5. ^ 往生極楽院~京都大原:三千院~”. www.yoritomo-japan.com. 2025年6月12日閲覧。
  6. ^ a b 藤原氏北家公季孫(閑院流)-公卿類別譜(公家の歴史)”. geocity1.com. 2025年6月12日閲覧。



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