藤原資信とは? わかりやすく解説

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藤原資信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/13 07:39 UTC 版)

藤原 資信(ふじわら の すけのぶ、永保2年(1082年) - 保元3年11月18日1158年12月10日))は、平安時代後期の貴族。初名は資懐藤原北家小野宮流参議藤原顕実の長男。官位正三位中納言

経歴

諸陵助式部丞を経て、白河院政期中期の康和4年(1102年叙爵する。康和6年(1104年春宮・宗仁親王の昇殿を許されたのち、越後権守次いで中務大輔に任ぜられた。

嘉承2年(1107年)宗仁親王が践祚鳥羽天皇)すると資信は昇殿を許され、嘉承3年(1108年左衛門佐に遷り、天仁2年(1109年)従五位上、永久2年(1114年正五位下と昇進していく。しかし、左衛門佐から近衛少将への任官は叶わず、まもなく兵部権少輔(のち権大輔)に遷され、昇進も止まってしまう。さらに、保安4年(1123年)鳥羽天皇が崇徳天皇譲位すると昇殿を止められるなど、資信は30歳代から40歳代にかけて不遇を託った。

長承元年(1132年)9年ぶりに昇殿を許されると、長承2年(1133年五位蔵人、長承3年(1134年)右少弁と俄に栄職に登用される。その後は、保延3年(1137年)権右中弁、保延4年(1138年従四位下、保延6年(1140年)従四位上、永治元年(1141年)左中弁と、弁官を務めながら順調に昇進し、永治2年(1142年)61歳にして正四位下蔵人頭に叙任された。

同時に蔵人頭となった藤原経宗とともに7年半に亘ってこれを務め、この間の久安4年(1148年)資信は右大弁に昇任されている。久安5年(1149年)経宗とともに参議に任ぜられ、資信は68歳にして遂に公卿に列した。議政官の傍らで、引き続き左右大弁を兼帯し、久寿2年(1155年従三位に昇叙されている。後白河院政期に入っても、保元元年(1156年藤原公通を超えて正三位・権中納言に叙任されるなど昇進を続け、保元2年(1157年中納言に至った。

保元3年(1158年)8月に猶子の藤原資忠を木工頭に任じる代わりに、資信は中納言を辞して兼任していた兵部卿のみを帯びた。同年11月8日に出家。11月18日に薨去享年77。

官歴

公卿補任』による。

系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原顕実
  • 母:藤原師仲の娘
  • 養子女
    • 男子:藤原資重 - 実は藤原公章の子
    • 男子:藤原資忠 - 実は藤原忠房の子
  • 生母不詳の子女
    • 男子:信顕
    • 女子:

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『弁官補任』
  2. ^ 『大間成文抄』第五

参考文献




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