蒙古国書の到来
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文永5年(1268年)1月16日、蒙古と高麗の国書が九州の太宰府に到着した。両国の国書は直ちに鎌倉に送られ、幕府はそれを朝廷に回送した。蒙古の国書は日本と通交関係を結ぶことを求めながら、軍事的侵攻もありうるとの威嚇の意も含めたものであった。日蓮は、蒙古国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止め、執権・北条時宗、侍所所司・平頼綱らの幕府要人のほか、極楽寺良観、建長寺道隆ら鎌倉仏教界の主要僧侶に対して書簡を発し、諸宗との公場対決を要求した(十一通御書)。十一通御書においては念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という「四箇の格言」を見ることができる。 しかし幕府は日蓮の主張を無視し、むしろ日蓮教団を幕府に従わない危険集団と見なして教団に対する弾圧を検討した(「種種御振舞御書」)。
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