蒙古戦役(1628年-1635年)
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「明清交替」の記事における「蒙古戦役(1628年-1635年)」の解説
国・勢力指導者状況・目的後金 ホンタイジ 北元を攻撃。勝利 北元 リンダン・ハーン リンダン・ハーンは病死し敗北 後金に隣接していたモンゴルの部族ホルチン(科爾沁)は、1625年に同じくモンゴル部族のハルハ(喀爾喀)とチャハル(察哈爾)に貴族7人を殺され、防衛のために1626年にヌルハチと連合した。チャハルは1628年と1635年にドルゴンによる戦闘に参加した。1632年のチャハルに対する遠征は、張家口に交易場所を設けることを命じたものであった。1634年にホンタイジは明と連合した北元のハーンであるリンダン・ハーンの軍勢を破り、北元の支配を終焉させた。南蒙古の遊牧民への勝利によって、後金は膨大な馬を献上させる一方で、明に対する馬の提供を封じた。そして元の後継者として自身を位置付けたホンタイジは、リンダン・ハーンが所有していた「大元伝国の璽」と呼ばれる玉璽も手に入れた。この玉璽はモンゴルのハーンのシンボルであり、ホンタイジは東アジアの支配権を得たとされた。
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