荘襄王即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 15:24 UTC 版)
孝文王元年(紀元前250年)、孝文王がわずか1年で没し、子楚が荘襄王、呂不韋が丞相、義母の華陽夫人が華陽后から華陽太后、実母の夏姫を夏太后、政が太子となった。政が太子となると聞くと趙の孝成王は驚き、政母子を秦に送り返した。 荘襄王は昭襄王・孝文王の政権を引き継ぐ形になり、これまでの功臣をそのまま登用し、魏・韓・趙に対する攻略を再開した。 荘襄王元年(紀元前249年)、東周が諸侯と謀って秦を裏切ろうとすると、呂不韋を派遣してこれを討伐し、東周を滅ぼした。ただし、東周の王族は存続させて陽人の地を与え、周室の祭祀を執り行うようにした。一方、蒙驁(蒙恬の祖父)は韓を攻めて成皋と鞏を取る。この時、秦の国境は魏の都である大梁まで至り、三川郡を設置する。 荘襄王2年(紀元前248年)、蒙驁が趙を攻めて太原を平定させる。 荘襄王3年(紀元前247年)、魏の高都と汲を取り、趙の37もの城を奪い、長平の戦いの舞台となった上党の地も完全制圧する。初めて太原郡を設置する。同年4月に日食があった。魏の信陵君が5国をまとめ上げて反撃に出て、蒙驁の率いる秦軍を破り、函谷関まで追撃して秦を追い詰めた(河外の戦い)。河外での敗戦に激怒した荘襄王は、秦に人質として来ていた魏の太子増(後の景湣王)を拘禁させようとした。しかし、魏と単独講和を結ぶことで列国の合従を乱すという勧告されると、これを断念した。また、秦が信陵君と魏の安釐王が不仲だという噂を聞きつけ、信陵君と安釐王を引き離すための流言を流し、信陵君を政治から引き離す事に成功している。 同年5月丙午(23日)、35歳で薨去。在位はわずか3年であった。秦の天下統一後、始皇帝により太上皇に追尊されている。これは中国史上初めて太上皇の称号が使われた事例である。
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